わたしの熊本地震 その2
熊本地震から3年のきのうの夕方、阿蘇山が噴火した。
たしかに昼間、噴煙がいつもより多く上がっているのが職場から見えたけれど、至っていつも通りの生活だ。
災害が起こるとすぐに報道されるので、遠方の友人が心配して安否確認の連絡をくれる。きのう噴火したことは、現地にいるわたしよりも先にニュースで知った友人から連絡があって知ったくらいだ。いつも心を寄せてくれる人の存在は、本当にありがたい。
災害が起きたとき、現地にいる人々の状況は十人十色だ。
本当に深刻な状況の人もいる。
でも、行き過ぎた報道や過剰な心配は、現地の人々の生活をおびやかすことになってしまう。このことを、阿蘇に住む人は熊本地震で体感した。
観光業が中心の阿蘇では地震後、観光客や修学旅行生が激減してしまい、地震の影響がなくなってからも、地震前のように客足が戻らなかったのだ。
きのうも、阿蘇山の噴火が全国ニュースのトップニュースとして報じられていた。ゴールデンウィーク前のいまの時期にこの報道は、阿蘇の観光にとって痛い。地元の人が普通に生活していても、危険がせまっているわけではなくても、観光客の足は驚くほど遠のいてしまうからだ。
観光するのにあえて不安な場所を選ぶことはないし、実際に行動が制限されることもあるので、無理にとは言わない。けれど、報道や思い込みだけで判断せずに、その土地に足を運んで、リアルないまを感じてもらえたらいいなと思う。
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熊本地震のときには、本当にいろいろな人に助けられた。
地震後、ひとり暮らしのわたしは友人夫婦の家に身を寄せさせてもらった。会社にはグループ会社から水やカップ麺といった支援物資が大量に届き、わたしたちに配られた。停電や断水、道路の通行止めが続くなか、九州電力や自衛隊の車両が地域の至るところで活動していた。ボランティアで物資を運んできたという人から、ペットボトルの水をもらったこともあった。ケーキ屋のおばちゃんは、甘いものを食べて元気だすようにとケーキをおまけしてくれた。
阿蘇にたくさんある温泉は、いずれも無料開放された。自衛隊が提供する簡易のお風呂にもお世話になった。シャワーが使えて、湯船もあり、女湯では女性の自衛隊員が湯加減を聞いてくれて調整してくれた。
当面の生活のなかで、一番困ったのが生活用水の確保だった。
飲料水は阿蘇の場合、湧き水をくむこともできたけれど、トイレを流したり食器を洗ったりするのに使う水に困った。前震の後、自宅のお風呂にためていた水を抜いてしまったのが失敗だった。自宅に戻ってトイレに行くときは、用水路から大きめの容器に水をくんで流した。食器はできるだけラップを巻いて使ったが、洗うときには500mlのペットボトルの蓋に穴を開けて中の水を押し出す方法を教えてもらった。こうすると、水圧があって洗いやすい。この穴開きの蓋と、水を入れられる空きペットボトルやタンクなどの容器を、災害時に備えて用意しておくのをおすすめしたい。
自宅の水道は、ゴールデンウィークに入っても復旧しなかった。うちのアパートにきている水道管は地割れによって壊れてしまい、地上に仮の水道管を敷設する復旧工事が進められていた。16日ぶりに水が出たときには、感動と感謝で胸がいっぱいになった。
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生活が落ち着いてくると、自転車や歌といった趣味も再開した。
熊本で開かれたチャリティーの自転車イベントに現地スタッフ兼ライダーとして参加した。(落車によって手の小指を骨折したけど笑)
知り合いの飲食店で、自転車乗りの仲間と一緒にチャリティーライブを企画して、歌ったりもした。集まったお金は熊本地震義援金に寄付した。
災害の後はどうしてもお客さんの足が遠のいてしまうので、こうしたイベントをきっかけに、熊本に、阿蘇に、人が来てくれればという思いだった。
フットワーク軽く、快く集まってくれた仲間に、とても勇気づけられた。
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道路の状況は3年経ってずいぶんと良くなった。
阿蘇山へ続く登山道は順次通れるようになり、地割れで通れなかった生活道路も補修された。当時はこんな様子だったことも、いまでは懐かしい。
地震以降、運休しているJR豊肥本線の肥後大津~阿蘇間が2020年度内に運転再開の見通しとなったそうだ。新しい阿蘇大橋や、国道の代替ルートも同じころに完成予定だ。
現地では日々工事が進めれられている。
電車が通らなくなり埋め立てられた線路も、取り壊されてしまった駅舎も、新しく生まれ変わり、また電車が走る日がくるのが楽しみだ。
わたしは現在、地震前とほぼ変わらない生活ができているが、いまだに厳しい状況に置かれている人もいる。支援が行き届いて、普通の暮らしを取り戻せることを願う。
これは、わたしが経験した熊本地震の一部の記録だ。
その1はこちら。
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