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不自由さを必要とするとき。

ひとり息子が家を出て、やっと思う存分自由を満喫できると思った途端に、老犬(豆柴・ぶん太・14歳)がボケ始めました。

元々、頑固で愛想がなく拘りの強いタイプではありました。けれど家に来た頃は家族全員、仕事や学校に忙しく、毎日朝晩の散歩は欠かさなかったものの平日昼間はお留守番状態。それでも彼の鳴き声を聞くのは、子犬の頃の夜鳴きを除けば、玄関先に知らない人が来た時ぐらいで、それも短く数回吠える程度でした。

そんな彼は現在、毎朝夫の出勤後から吠え始めて、まるで玄関ドアの向こうに夫が隠れているかのように、玄関に向かって一時間以上吠え続けます。マンションなので、玄関ドアの向こうには共用廊下があり、そこを通る近所の人の「犬うるせー」という声が窓越しに聞こえると、さすがにいたたまれなくなります。

時を同じくして、車に乗せても、シャンプーをしても猛然と吠えるようになり、興奮し過ぎて大小おもらしすることもあり、「休日に犬とドライブ」なんて誰一人幸せにならないイベントに成り下がりました。

体重は6キロ弱しかないものの、柴犬の頑健さを引き継いでいるせいか、鳴き声はとても大きく、その間は細かいことを気にしないわたしでさえ、考えることも寝ることもできません。

ちなみに犬にとって、わたしがどういう存在と認識されているのかはよくわかりません。時々はわたしがソファに座っていると、安心したかのように横に来てソファの上で眠ることもあります。だから、成功するかどうかに関わらず、毎朝一定時間、彼を宥めたりすかしたりするのがわたしのルーテインになりつつあります。

犬がそうなってから、ずっと犬に対して「自由を奪われた」と感じていました。
本来ならもっとわたしは自由だったはずなのに。
それは、とてもなじみ深い感覚でした。なぜならわたしはずっとその言葉を心の中で唱え続けてきたからです。

子どものせいで、自由を奪われている
仕事のせいで、自由を奪われている
お金のせいで、自由を奪われている
親のせいで、自由を奪われている

まるでわたしの人生は、誰かによって自由を奪われ続けたせいで、やりたいことができなかったかのようです。
そのストーリーの中で、わたしは常に無力です。

けれど、もしわたしが無力ではなかったら?
もしわたしが、この不自由さを望んで創り出しているとしたら?
不自由な状況によって、何かを守っているとしたら?
わたしが感じているあらゆる不自由さ、例えば人間関係における役割や社会人としての”ちゃんと”を含めて、幻想だとしたら?

人生のほとんどを、不自由さに立ち向かうために使ってきたことそのものが、自作自演のお芝居だったということになります。
そこまでして守りたかったものは、何なのかを知るために、わたしは今まで近づいたことがなかった、自分の中の恐ろしい深淵を覗きこもうと思っています。

ヒューマンデザインで自己認識を深めてみませんか?



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すがこ
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