入院徒然草#02 母であること 女であること
私が周囲に妊娠を報告した時、散々言われた言葉がある。
「まさかお前がお母さんになるとはなあ(笑)」
言い方は多少違えど、殆どの方から同様のことを言われた。
それくらい私と母親像はかけ離れていた。
赤ちゃんは欲しいけど乳首は黒くなりたくなかった
昔から小さい子や赤ちゃんは好きだったので、結婚して出産適齢期を迎えると、いつか自分にも赤ちゃんが出来たらいいな、と自然と思うようになっていた。
しかし同時に、私は"女"である事への執着が強く、出産に対してネガティブなイメージも持っていた。
怒られるのを承知で告白すると、
妊娠して乳首が黒くなったり、お腹が大きくなったりする事で女としての価値が損なわれるのではないか…。
出産するなら女性ホルモンが爆発して肌が10歳若返るとか、爆乳になって産後もサイズがキープされるとか、そういう特典が無いと割に合わないんじゃないか…。
そんなことを真剣に思っていた。
母になって変わったこと
しかし人間というのはよく出来ているもので、
出産に向け変わっていく自分の身体を目の当たりにし、戸惑い、葛藤することも確かにあったが、
同時に自分の身体を通して感じる我が子の存在が、それ以上の幸福感、愛着をもたらしてくれた。
乳首の黒ずみなんて、いつの間にかどーーでもよくなっていた。ケ・セラ・セラである。
(しかも、産後ちゃんと色戻る!)
そして無事出産を終え育児が始まると、
今度は生活が一変する。
母親の生活の変化については、LICOさんという方の『ママの毎日』という詩が素晴らしいので、以下に引用しておく。
『ママの毎日』LICO
独身の頃
ヒールの靴が好きだった
お酒は苦手だったけれど友達と過ごすお酒の場の楽しい雰囲気が好きだった
好きな音楽はミスチルでいつもウォークマンに入れて好きな時に聴いていた
電車の中でゆっくり本を読むのも好きだった
お風呂では半身浴をして
美容院には2ヶ月に1回は必ず行っていた
お化粧するのも好きだった
1人で行く映画館が好きだった
流行りの雑誌を買い
流行りの曲を聴き
流行りの服を着て
流行りの場所へ好きな時に出かけた。
そんな私は 今
泥だらけのスニーカーを履き
子どもたちの着替えやオムツが入った大きなバックを肩にかけ
ちゃんとした化粧もせずに
髪を一つにくくり
毎日子どもたちの手を繋いで公園へ散歩に行っている。
聴く曲はミスチルからアンパンマンマーチに変わった。
眺めているのはファッション雑誌から
子どもの母子手帳や幼稚園からの手紙に変わった。
考えていることは
今日の夕飯のメニューと
長女が幼稚園から帰ってきたあとのおやつ、お風呂、夕飯の流れの確認。
今日の天気で洗濯物が乾くかどうかと
明日の長女の遠足が晴れるかどうか。
最近眠くなると激しくぐずる長男を昨日つい怒ってしまったから
今日は早く寝かせてあげよう。
今日は怒らないでおやすみをしよう。
そんなこと。
毎日 押し流されるように迫ってくる日常があるから
キレイに片付いた部屋も
大の字で朝まで眠れる夜も
ゆっくり塗れるマスカラも
なんだかもう思い出せない。
そう。
思い出せないから
私たちは つい 忘れてしまうのだ。
この毎日が
ずっと続かないということを。
(中略)
1人で好きなことを
好きな時に
好きなだけ出来るようになったら
どんな時も「ママ」「ママ」と私を呼び
どんな時も私のことを探しているあなたの姿を思い出して
私は泣くのでしょう
一体いつまであるのかな
一体いつまでここにいてくれるのかな
そして
そんなことを考えているうちに
また 今日も終わってしまった。
手放す事で得られるものもある
こうして半強制的に、今まで大切にしてきた自分の時間や、女としての自分への執着を捨てることになったのだが、
肩の力が抜けて表情が柔らかくなったからか、
友人からは「出産して綺麗になったね!」と言ってもらえることが増えた。
今思うと、以前の私は女という性別に固執して、評価者(男性)を中心に自分の価値を測っていた。
ブスでも美人でもなく、中途半端に可愛いから(自分で言うな)余計に周囲からの評価を気にしてしまっていたのだと思う。
そんな窮屈さから、娘が解放してくれたのだ。
もちろん今でも出来るだけ見た目も美しくいたいと思っているし、可愛い洋服やメイクも大好きだが、それはあくまでも自分のためだ。
一見色々な事を手放さなければいけないように見えても、それは新たな自分を見出すチャンスかもしれないのだ。
そう考えると、これから訪れるであろう育児の荒波も、前向きな気持ちで乗り越えられそうな気がする。