純水すぎる愛
幼少期の休日、家族でよく出かけていた区内のホームセンターは、おもちゃ売り場の一つもなく、女児にとっては退屈きわまりのない場所だった。
しかし、楽しみにしていたものが一つだけある。
買い物が終わったあと、決まって立ち寄る和風ファミリーレストラン。そこでデザートメニューの一つとして提供されていたある甘味を、私はたまらなく愛していた。
くずきりである。
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生来、「つるつる」や「もちもち」の食感を好む子どもであった。
米より麺が好きだったし、あんみつで一番好きな具は寒天だったし(豆かん食えや、と思うが、あんみつで一番好きでない具は豆なのだった)、従兄がある日振る舞ってくれたタピオカはバケツ一杯食べたいと思ったし、ナタデココをはじめて食べたときには、バブル期のギャル以上にいいリアクションをしたんではないかという自負がある。白玉を自宅でゆでるとなったら、もうテンションは上がりっぱなしだ。
くずきりは、口にするする入っていく気持ちよさといい、噛み切るときのもちっとした食感といい、まさにつるつる×もちもちのハイブリッド。
初めて食べたのがいつだか覚えていないが、物心ついたときにはもう、ホームセンターに行ったならくずきり、そんな方程式が脳内に組み込まれていた。
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そこのファミレスのくずきりは、段重ねになった丸いお椀のようなもので提供されていた。
ちょっと珍しい(以後出会ったことがない)きしめんほどの太さに作られていて、透明なそれが氷の入った水に浮かんでいる姿は、見ているだけで涼しくなるようなビジュアルだった。
一つ文句をつけるならば、「段重ね」の上段に入っている液体が邪魔だった。
毎回毎回、顔をしかめながら、液体をこぼさぬよう上段をそっと脇に置き、ようやくお出ましになった主役を歓迎した。
きしめんサイズのくずきりは、子どもが箸の練習をするのにちょうどよい食べ物だったなぁと今となっては思う。
透明なリボンのようなそれを、箸で挟んでそっと持ち上げると、弾みで氷たちがころんころんと音を立てる。水気をまとったリボンが、店内の光を反射させているところを、しばしうっとりと眺めてから、箸を口へ運び、唇をうまく使ってつるっと吸い込む。
もきゅっとそれを噛み締めながら、ああ冷たい、ああ気持ちいい、口を通ったときの清涼感といい、つるっと体内へ消えていくのどごしといい……。
と思ったかどうかは知らないが、幼少時代の私は、この瞬間、恍惚と呼んでもいい幸福を感じていたのだ。
大きな間違いを犯していることも知らずに。
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先程の描写を読み返してほしい。
私は氷水から直接、くずきりを口に入れていた。
本来くずきりとは、「あるもの」にワンバウンドしてから口にする食べ物である。
では、「あるもの」はどこへ行ってしまったのか?
もう一度ぐぐっと上へスクロール。そうそう、そこそこ。顔をしかめながらどかした液体があったはず。
それ、黒蜜です。
くずもちにしろくずきりにしろ、葛という植物のデンプンは、人間が味を感じとるには少々主張をしなさすぎる。そこで人々は、それに甘い蜜をからめながら食べることを思い付いた。調味料で味をつけ、食感は素材から楽しむ。日本にしてはフランス料理っぽい理屈の食べ物だなぁと思わないこともない。
つまるところ、黒蜜をつけていないくずきりは、ほぼほぼ無味無臭だ、ということを言いたい。
限りなく無味無臭の食べ物を、うっとりと食する系女児。しかも、別に私は黒蜜を醤油かなにかと勘違いしていたわけではなく、それが甘い蜜であることを認識しながら、
「これつけるとしつこくなるー」
なんて言いつつ、味のしないくずきりを好んで食べていたのだ。
おまえ、どんだけくずきり好きだよ!
まるっと使われてない黒蜜とからっぽのお椀を見て店員さんびっくりだよ!
きっと、ただただ素朴に、私はこの甘味を愛していた。
純粋に。
食感とのどごしと、涼しげな見た目と。
あんなにまっすぐに、素材だけを愛することは、きっとこの先の人生でもなかろう。
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学生時代、甘味で有名な紀ノ善に入った。
くずきりは名物だった、らしい。
なつかしくて頼んでみたら、きしめんとは似ても似つかない、どちらかというと細目のうどんっぽい食べ物が現れた。
せっかくなので、2パターンの食べ方を試してみた。黒蜜をつけたのと、そうでないのと。
黒蜜をつけたほうが、断然美味しくて、美味しいんだけれどなんだか寂しくなった。