誰にも見せない文章を書く人を、わたしは信頼してしまう。
すべてが開かれた人間なんていない。どれだけ曖昧でも、自他の境界はどこかに引かれている。そして、閉ざされた側のさらに奥に、その人の人格があると思っている。
「日記をつけよう」と思いたったのは5年前だった。絶対誰にも見せず、時が来たら燃えるゴミの日に出そうと決めた。
情けない心の内、ぐちゃぐちゃな感情、家族への嫌悪、浮かれた恋心、親友への妬み、理由も分からない激情…抱え込んでいたら爆発してしまいそうなものたち。
彼らに居場所を作ろうと思ったのが最初だった。居場所を作って、自分と切り離し遠ざけようとした。結果として、わたしは5年間書き続けた「誰にも見せない文章」に今、生かされている。
文章を書き、届ける仕事をしている。文章を構成する言葉の一つ一つは、どうやっても自分からしか生まれない。言葉そのものは既存だとしても、どんな言葉を選び取るかは個人に委ねられている。
江國香織は小説の中で「結局のところ言語は人格なのだ」と言った。「人格にない言葉を無理に発音したところで、それは音にすぎない。」。
今わたしの人格にある言葉は、きっと誰にも見せないあの日記の中で磨かれた。
今よりもっと感情がジェットコースターだった頃、自由に書けるノートの上で、わたしは途方に暮れていた。書けば書くほど、書くスピードに追いつかなかったもの、言葉に出来ずに消えていったものの存在を感じた。
それは、書かなければ気づかなかったことでもある。表現せずに抱えたままだったら、いっしょくたにしていたら認識出来なかったもの。いざ場を作ってみて初めて、どうしても外側に表出しきれないものがあると分かった。
表現出来たものは、文字として記録に残る。読み返すたびに、より強く深く自分の心に残る。表現できなかったものは、もちろん記録には残らない。とはいえ、消えたわけじゃないのだ。
言葉にならなくても、「感じた経験」は身体に残る。心に残る。心身の経験値としてそれは静かに降り積もる。書くことは考えることを加速させるから、書けば書くほど、言葉にならない経験値がたまる。
言葉になったものは、見える形で人生を支えてくれる。言葉にならなかったものは、見えない形で力をくれる。本を読んでいると、たまに心にコンッと響く一文がある。それは、自分で言葉に出来なかったものに形が与えられる瞬間だ。だから、かすかに胸が歓喜で震える。
誰にも見せない文章は、自分の深いところと繋がる通路でもある。そこで紡いだ言葉や感じた経験は、人格と深く結びつく。
誰にも見せない文章を書く人は、自分の深淵を知っている。深淵を知った人の文章は、強く、優しく、心の柔らかい部分に届くような気がする。
少しずつわたしの人格となった言葉たちを使って、わたしはまた誰かに向けて文章を書く。深淵から見つけた光るものを、あなたに届けたいと祈りながら。