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物事の判断基準

僕は「人生の選択肢を増やすことが大切だ」と言いますが、その選択基準の一つで大切なことがあります。それは「正しいか正しくないか」という基準です。恐らくこの物差しで物事を判断する人がとても多いように感じます。
例えば「朝ごはんは毎日食べなければいけない」とか「いい学校に行っていい会社に入ることが一番良い人生だ」とか、もはや時代の逆行かと思われる判断基準ですが、いまだにこの「正しい・正しくない」という考え方が流布しています。
これも根本的原因は教育にあるのは間違い無いのですが(正しい答えと正しくない答えを答えさせられることを教育させられるから)、しかし、世の中に絶対的ルールはないと理解している人が多いのも事実です。

そもそも人生には答えはないので正しい答えもないし正しくない答えもありません。選択する前ではなく、した後の行動が大切なので、選択そのものに意味はありません。

ではなぜこの基準が採用されているかというと、論理的でわかりやすいからだと思います。正しいというのは論理的で理にかなっているということがわかっているからです。論理は常識となり普遍的な答えとなっています。でも、この論理がそもそも当たっているかもわかりません。少し悪い例ですが、人を殺してしまうことを考えるとわかりやすいです。
今の時代で人殺しはもちろんいけませんが、戦争中であれば人殺しは正当化されてました。

このように「正しいか正しくないか」という判断基準は、一般的な常識から考えられる物が多く、これは時代によって180度変わったりする物です。

では何を基準にして物事を判断すればいいかというのは、僕は「美しいか美しくないか」ということです。

これは道徳的なもので人によって判断基準が変わると思われがちですが、「人を殺すこと」ってどの時代でも「美しい」とは思わないと思うのです。もちろんそれが歪んだものになることもあります。ただ、一般的な正解=常識よりも人間に本来備わっていて学んでいくこともできる「美しさ」。この美しさがある人の方が正しさで生きている人よりも魅力的なことは明らかです。

「これをする自分は美しいか」
「どんな自分が美しい姿か」

そんな判断基準で生きていくのも一つの生き方なのかなと思います。

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