愛とシゴトとナイチンゲール(6)待合室の長椅子に離れて座る他人のごとき夫婦
これはある日、外来の待合室で見かけた光景だ。
ある片麻痺の高齢男性患者さんが、奥さんに伴われて外来に来ていた。待合室はガラガラでふたり一緒に座れるのに、この夫婦は別々の長椅子に座り、目も合わさなかった。
ご主人は麻痺がありながらも陽気に看護師や事務員に話しかけて楽しそうだが、奥さんの方を振り向くことはなく、まるで面識のない人同士のように振舞っていた。
やがてご主人は名前を呼ばれると杖をつき、足を引きずりながら診察室に入った。一方、奥さんは寄り添うでもなく、待合室に座ったまま。診察室に入っていく夫に視線すら向けず、まるで他人のようだ。
聞くと、男性は若い頃はずいぶんお酒を呑み、奔放で、奥さんはずいぶん苦労したらしい。
ある時、先輩が奥さんからこんなことを聞いたそうだ。
「あの人がどうなろうと知ったこっちゃありません。だた、病院に連れて行くのは私しかいないから連れてきただけです」
この奥さんのことを、私は「ひどい奥さんね」とは思えない。奥さんは旦那さんには長年辛い思いをさせられたのだ。旦那さんが病気になったからって、それまでの恨みつらみを水に流すなんてそう簡単にはできないだろう。
恨み辛みが澱のように心に渦巻いていても、嫌だ嫌だと顔をしかめても、ご主人の受診のために送迎している。
そこには、一縷の愛がある。
病気になった旦那さんを冷淡な目で見下すのは奥さんなりの復讐なのだろう。過去の恨みを「無関心」で復讐する妻と、妻の仕打ちに黙っている夫、そういう関係性の中で二人の「今」が成り立っているのだ。
そこに愛がなければ、復讐しようとも思わないはずだ。
関係性という言葉が思い浮かぶ。家族関係、患者―看護師関係。患者さんが、家族に見せる顔と、私たち看護師や医師に向ける顔は違う。
もし私が吉田さんの家族だったらどうだろう?きっちりした吉田さんに、やれ片付けろ、やれだらしがないだの、四六時中怒鳴られていたかもしれない。
吉田さんのことだ。「あ~あ、なんてだらしがない子なんだろう。ホントに私の娘かね」くらいの毒舌は言われたかもしれない。そして私は「毎日うるさいな~、どっか行ってほしい」って心の中で毒づいたかもしれない。
それがきれいごとではない本当の『家族の姿』だろう。
今、家族ではない看護師の『私』は、吉田さんの置かれた境遇にものすごく共感している。家族だったらできない共感を、看護師の私はしている。これが患者―看護師関係なのかな、と思うが、先輩たちや他の看護師はそうではないみたい。「吉田さんの看護の範疇を超えた要求」にみんな腹を立てているからだ。
私は吉田さんが他の看護師から邪険にされていたら、自分のことのように心が痛む。時には、先輩たちが非情な鬼に思えてしまう。どうしてこんな気持ちになるんだろう。私と吉田さんの「関係性」からだとしたら、吉田さんと私の関係性ってどういうものなんだろう?
吉井さんは、床頭台にお年玉をしまって嬉しそうだった。
※この物語は取材に基づき、個人が特定されないよう加工したフィクションです。
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