物語での立ち位置と、貴方の意志とは。
3年ほど前、途端に暗い闇に紛れ込んでしまったとき、手を伸ばした先のその人は、わたしに物語を紡いでくれた。
『泣いた赤鬼』
3年前、この物語について話したとき、その人はわたしに問いかけた。
「貴方は、この物語で赤鬼と青鬼、どちらになりたいですか。」
そして、その人はいま、わたしに別の問いを問いかけている。
「この物語の登場人物は何人いるのか。そして、この物語の中で、貴方はどの存在であるのか。」
前段の登場人物は、物語を読む限り3人。
① 赤鬼
② 青鬼
③ 人間
そして、その人は、この3人に加え、
④物語の読み手である“貴方“
である、といった。
さて、その上で、読み手の“貴方“は、この登場人物たちの誰に当てはまるのか、ということを問うた。
この問いを受けたのは、後輩と私。様々な議論があったのだが、珍しくわたしは、黙り込んでしまった。もちろん、後輩の意見を尊重するために、先に話をしてもらっていたこともあるが、問いや議論の違和感が拭えず、ずっと黙ってしまった。
その様子を見て、その人はいった。
「貴方は何か言いたいことがあるようだけど、どうしたの。」
珍しく考え込んでいる様子を見て、その人はわたしに発言を促した。
そこで、少しだけ答えた。
「誰であるか、というより、どうありたいか、ということをわたしは大切にしたくて・・・。それに・・・。」
と辿々しく俯いた。
「ごめんね、貴方のいっている意図を、全て汲み取ってあげられてなくて。続けて。」
と言葉をかけてくれた。
その場でできる精一杯の答えをを呟いてみたのだが、今度向き合えた時、ちゃんとその思いを話せるようにしておきたいと思う。
わたしが言いたかったのは、【誰であるか】というより、【誰であろうとするか】、が生きていく上で大切であると思う、ということであった。
もしかするの、その人の問いかけの答えと本質は違うのだろうが。
おそらく、この物語で誰であるか、という問いに対して、おそらく多くの人は【自らは青鬼である】と答えると思う。そのほうが、美しいから。
自らを犠牲にして、人間や赤鬼を救った、そう思いたいから。
自分は人に多くを分け与え、自分だけが、他人に物を差し出し、良いことをしている、そう思うことで、自らの善良さを担保していると思うからだ。
では、わたしはそういう人になりたいか、というとそうではない。
多く存在するであろう【青鬼を標榜する人物】は、この物語でいう【人間】にわたしは見える。他者の行動の表面のみ読み取り、都合の良い側につき、それでも自分は傷つかない。でも、自分は赤鬼のような人とも仲良く出来る。自分は恐怖の対象である赤鬼とも優しく出来る、恐怖心を差し出してでも仲良く出来る人なんだと。
だからわたしは、自分を青鬼である、とはいえないし、言いたくない。
わたしはどうありたいか、そして、どうある人の側にいたいか、というと、【青鬼であろうとする人】である。
自分自身を、青鬼とも標榜できず、それでも人のためには力を尽くしたい、たとえ自分がどうなったとしても、青鬼であろとする、その姿勢にこそ、その人の美しさはでると考えている。
きっと今度会えた時には、ちゃんとこの、青鬼であろうとする人、そしてそれは、きっとその人のことでもある、ということを伝えようと思う。
そして、その人は、また別の話をした。
本当の愛情とはないか、という話だ。
その人は、「賢者の贈り物」という物語の中に、それがあるといった。
わたしは初めて聞いた話であったのだが、これもまた、互いの自己犠牲、相手を思う精神性といった部分にあるとその人はいった。
わたしは、まだ、その本質が理解できていないが、この話はまた別の機会に。
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