和田千秋さん個展「障碍の美術XV」をみて
和田千秋さんとは
最近、心身に障がいを持つ人たちのことをアートをとおして考える機会がふえました。
今回おとずれたのは和田千秋さんの個展
『障碍の美術XVー「障害」と「希望」を巡る断章』
場所は福岡市中央区大手門にあるギャラリー「EURECA」さんです。
和田さんは福岡の大学の美術科に在学中から精力的に活動され、抽象的なインスターレーション作品を展開なさっていました。
しかし生まれたご長男が脳に障がいをうけ、リハビリテーションに明け暮れる毎日がはじまったことで制作からは遠ざかってしまいました。
そして数年後、お子さんの障がいは再び和田さんを作品制作に向かわせることになります。
ご長男との生活を通して学んだことなどを美術作品として社会に送り返したい、と考えられたのだそうです。
この「障害の美術」シリーズは1992年より続けられている制作活動なのだそうです。
※和田さんは「障がい」という言葉を「障害」ではなく「障碍」と表記されます。
「害」・・・そこなう
「碍」・・・さまたげる
ですからわたしも「障碍」という言葉を使わせていただきます。
第一印象は愛語さんのかわいらしさ
ギャラリーに入ると息子さんをえがいた絵がたくさん見受けられました。
アーモンド型の大きな目が印象的で、大きな口を開けて笑ったり、まぶしそうに目をほそめたり、表情豊かです。
単純に「かわいらしいな」と思いました。
ツヤのあるほっぺたが作る口元のシワとか、笑った口のなかに見える小さな歯とか舌とかが、我が子の幼少期を思わせて愛おしく感じます。
どうでもいい話なのですが、私は小さい子がメリヤスの肌着を着ているその胸元が好きです。
肌の柔らかさと、たよりない肋骨がつくる胸板の小さな平野(なんだか変な言い方ですが)が柔らかい布地に包まれて、さわると生温かくて、なんとも言えない気持ちになります。
それが呼吸にあわせて上下したり、その奥ではいっちょまえにピンポン玉くらいの心臓が拍動しているのかと思うと、身もだえしそうになります。
(”萌え~”ということばが一番近いでしょうか。)
ですから正直いうと、障碍うんぬんよりもまずそちらに目がいってしまいました。
勝手な第一印象をお話ししてしまいましたが、これら全てが和田さんの子育て奮闘の軌跡のような気がします。
力強い愛語さんの目にはきらりと「生」が光るのを感じますし、表情豊かな顔には和田さんの愛情を感じます。
今思えばメリヤスとかジャージとかいう伸縮性のある服のほうが不自由なからだに着せるのに便利だったのかなぁ、などと考えますが平織りのお洋服も着ている絵があったようですから関係ないようです。
ただ、絵の中でこの洋服の素材がなんなのかを表現できるというのは画家さんのすごいところだと思います。
(基本中の基本なのでしょうが。)
過去に「羽がほしい」という愛語さんのつぶやきから羽を背負った愛語さんを描かれたこともあるそうで、和田さんだけでなく、画材を手にすることができない息子さんとの共同制作なのかもしれない…と感じました。
「断章」とは
個展の題名にもある「断章」というのは
「文章の断片」とか「誰かの文章の一部を文脈にかかわらず切り取ってつかうこと」
をいうそうです。
実際に絵の合間にはたくさんの障碍に関する文章が、論説や小説、新聞記事などから抜粋されて掲示されていました。
そこには和田さんの見解はしるされておらず、鑑賞者は自分でそれらの断章をつなげて、自分なりに解釈することになります。
なかには自分の中に落とし込むには難しい文章もあり、その場では全てを処理できない、というのが正直なところでした。
印象的だったのは
『善意の人が「障害者もみんなを笑顔にしてくれる」とか「障害者も経済活動に貢献できる」などと議論をするのを見ることがあるが、それは知らず知らずのうちに優生思想のペースに乗せられてしまっているということになろう』
(木村草太 『「個人の尊重」を定着させるために』。『現代思想』2016年10月号「緊急特集 相模原障害者殺傷事件」青土社)
という文章でした。どきっとしました。
では手足も動かずに意思疎通もできない、という人がいるとしたら社会がその存在を本能的に大切に思えないものか。
思えるようになるにはどうしたら良いのだろうか。
この問題を考えることは、自分の中に「結局そういった人たちの価値はない」という意識が芽生えるきっかけになるのではないか・・・と思うととても怖かったです。
そこで自分でも障碍者の歴史について調べてみました。
ネアンデルタール人の遺骨に障碍を持つものが守られていた形跡があった、という文章が展示の中にあったからです。
障碍を持つ人と社会の歴史
ネットでセイタロウさんのコラムを見つけました。
今から45000年前、ネアンデルタール人が住んでいた現代のイラクのシャニダール洞窟で発見された骨には先天的に大きく変形した重度の要害がある骨格のものがありました。
しかも当時のネアンデルタール人の平均寿命を上回る推定50歳になるまで、比較的健康に存命していた形跡があったそうです。
ネアンデルタール人の時代では障碍がある者に対しても助け合いながら生きていたということになります。
またこの遺骨は丁重にあつかわれた痕跡があり、周囲から何らかの特別な感情を持って扱われていたのがわかるそうです。
さらに高齢者も仲間から介護を受けて暮らしていた痕跡があり、ネアンデルタール人が命を大切にあつかっていたのをうかがい知ることができるそうです。
そもそも人間には弱い立場の仲間をまもろうとする感情があったのでしょう。
原始的な人間がそうなのですから、それは本能に近いものではないかと個人的には考えます。
その後武力によって制されていた社会では優生思想に近い考えが生まれ、ためらいもなく弱いものが亡き者にされるという世の中をうんでしまいます。
しかしイエス・キリストが現れて以降、博愛主義によって障碍を持つ人は立場が変わっていきました。
障碍は神がその人とまわりの人々の成長のため与えた試練であり、未来に目を向けなさい…という教えがあります。
このキリスト教が現代世界における障碍者や社会的弱者に対する考えの主流となっているそうです。
思いはわたしにかえってくる
それからもおもいを巡らせてみたのですが、けっきょくは誰もが大切にされる社会を作るということは、私の明日が明るくなるということにたどりつきました。
つまり、明日私も障碍を持つからだになるかもしれませんし、家族がそうなるかもしれません。
また、障碍でなくても失業してお金が無くなったり、親の介護で身うごきが取れなくなったり乳飲み子を抱えたり(自分が産まないにしても)… と「困った」「不便だ」と思う立場になる可能性は十分あります。
そういった時に「自己責任だ」といわずに手をさしのべてくれる社会がそこにあるということです。
社会資源が整備されていなくとも、みんなの気持ちが優しくあればそれは乗り越えていく希望になります。
社会をどうすればよいか、ということもだいじですが、自分がどうあれば良いのか、ということをたくさんの人が考えるようになることも大切で、和田さんの個展はそのきっかけになるのではないかと思います。
展示には愛語さんの絵のほかに「違い十字」いう十字のモチーフを描いた絵がありました。
これが何を意味するものなのかをもっと詳しく知りたかったです。
先にお話ししたキリスト教から派生したなにかを連想します。
また過去作品に用いられていた愛護さんの訓練器具…と思うのですが、アメンボのような十字の脚の中央にベストのついたもので、おそらくうつ伏せになる訓練をするためのものではないかとおもうのですが…それも想起させました。
ざっくりとではありますが、そこには祈りがあるように思えます。
社会問題がおこり、どうにもいかなくなった時でも最後は祈りの気持ちだけが光になる気がします。
テーマにもある「希望」につながる気がします。
たくさんの学びをいたただいたこの展覧会に感謝しています。
和田さんの個展は
2024年11月3日(日)まで
(12:00-19:00)
最終日は和田さんがご在廊のようです。
長い内容になりましたが、最後まで読んでくださってありがとうございました。
ナース刺繍は現役看護師兼、刺繍家の私が「人体」「医療」をモチーフに制作をしております。
ホームページでは作品紹介やお知らせなども致しておりますのでご覧いただけますと幸いです。