手紙にもとめるもの
みなさんが最後に手紙を書いたのはいつですか。
2024年10月より郵便料金も値上がりとなり、ますます手紙を書くことは少なくなったかもしれません。
メールやラインにはない特別なあたたかさがある、といいますが私自身手紙になにを求めているだろうと考えてみました。
きっかけになったのはクラシックギターのコンサートでした。
奏者は福岡でギター教室を開き、プレイヤーとしてもご活躍の石橋侑子さん。
場所は福岡県朝倉市にある旧比良松郵便局。
昭和45年まで郵便局として使われていた古い建物の中にクラシックギターの上品な音色が澄みわたり、それにのせて昔の人々が書いた手紙が朗読されるという興味ぶかい企画でした。
戦時中の(と思われる)市井の人たちの生活が朗読の中に想像できました。
つつましい中にもいきいきとした表情が浮かびました。
石橋さんは演奏の合間のおしゃべりで「クラシックギターは地味で小さな音なんですが…」とおっしゃっていました。
しかし大仰なことばかり夢見て日々の暮らしをないがしろにしてしまいがちな私には、控えめだけど一歩一歩足をふみしめて進むようなクラシックギターの演奏…これが似合う生活が一番格好よいのではないかと思いました。
朗読された手紙の送り主たちの暮らしにはそれが感じられました。
石橋さんはまた
「楽曲や楽譜というのも、いにしえの作曲家から奏者にあてられた手紙かもしれない」
とおっしゃいました。
はっとするような表現で思わずうなずきました。
自分の溢れる思いをつたえようと受け手にあてて筆を取るというのは、なるほど手紙そのものかもしれません。
それからしばらく「手紙」について考えるようになりました。
私には30年にわたって文通をしているともだちがいます。
好きなバンドのライブ会場でであった年上の女性です。
まだ携帯電話も普及していない頃でした。
住所を交換するとすぐに彼女から手紙がきました。
私も手紙を書くことが好きでしたので、そこから長きにわたる文通がはじまりました。
彼女が長いこと携帯電話をもたないでいたことも文通がつづくことに結びついたと思います。
ライブは年に二度地元で開催されますのでその前後に手紙のやり取りをするのですが、封筒には彼女のバンドに対する熱い思いが毎回たっぷりととじ込められていました。
私も負けじと便箋を何枚もつかってバンド愛をつづりました。
他のともだちだったら到底聞いてはもらえないようなことです。
こうして考えると、手紙というのは一度に大量の文章を送り付けても文句をいわれないものかもしれません。
相手のペースで読んでもらえればいいですし、返事をせかすこともありません。
返事が遅くなったって「忙しくしていたものですから」が十分通用する媒体です。
レターセットを用意して、切手を買って、ポストに投函しないといけないわけですから。
私の手紙は決まって
「Dear○○(彼女の名)さん」
で始まり
「See you again.」
で終わります。
あらためて文にするとても恥ずかしいですが、ここに文通を始めた19歳の私の稚拙さが当時のまま残っているようです。
この定型文を書きだせば私はかんたんに当時に戻ることができますし、彼女もそれを笑いはしないと思います。
ペンをにぎって便箋にむかい自分の思いを無節操にぶつけられるというのは、彼女が年上で同じ気持ちを持つ人だからこそ許されることではあります。
しかしその「儀式」に似たような行動はメールやラインではちょっと味わえないことです。
彼女からもらった手紙は大切に保管しています。
手紙がずっと残るということは、第三者に読まれる可能性が高まるということでもあります。(私の死後とか。)
これも手紙がもつ独特の要素ではないでしょうか。
メールなどはガジェットを開かなければ読まれることはありませんが、手紙は手元にあれば隠しようがありません。
そのおかげで私たちは先に述べたギターコンサートのように、昔の人の気持ちや生活ぶりをシェアできました。
以前NHKの番組で人びとの日記や手紙にでてくるキーワードをデータ化して世が大戦に移行していくなか、人たちの心理状態や生活水準がどう変化していったのかを推測するという特集を見ました。
また閉鎖された炭鉱ではたらいていた親をもつ子どもたちの心理を彼らが書いた手紙や日記でさぐるという論文を読んだことがあります。
この研究は震災など有事の際の子どもたちの心の動きを推測し、適切なサポートをするための手助けになるそうです。
それを書いた人たちが望むかどうかはわかりませんが手紙という形で残されたものが後世の助けになり、優しい社会を作るヒントになるかもしれません。ちょっと大袈裟かもしれませんが。
SNSも他人の目にさらされるものではありますが、そこにあるのは「不特定多数の人に見られる」というフィルターがかかった発信です。
信用したその人だけに向けて述べられた正直な気持ち、というものとはちょっと違う気がします。
さて、文通相手の彼女はごきょうだいから言われて携帯電話を持つようになりました。
文通は細々と続いていますが、やり取りがショートメールや電話におきかわることが増えてきました。
私の本心としてはこれまでのように手紙でのコミュニケーションをつづけたいです。
ただ彼女が体調をくずしがちになり、お仕事も思うようにできなくなってきたことや郵便料金が値上がりしたことで負担にもなるだろうことをかんがえると、文通を続けてほしいとは言いづらくなりました。
彼女は義理がたい人なので、私が手紙を一通出せば必ず一通お返事を書いてくれます。
私が好きで書けばいいことですが、無理強いすることになりそうな気もします。
ちょうどそんな時に彼女から電話がかかってきました。
『明日のライブ行きますか?私は体調がよければせっかくチケットもとれたので行こうと思うんだけど…』
次の日から2日間にわたって地元で開催されるライブのことでした。
残念ながら私は行くことをやめていました。
「チケット取れてよかったですね。私は息子が受験を控えているので、風邪とかもらっちゃいけないから今回はやめておこうと思って。私の分まで楽しんできてくださいね。」
出先だったので二、三言だけ会話を交わました。
電話を切るまぎわ、私は祈りを込めて言いました。
「また手紙書かせてください」
はーい、とかなんとか彼女は言ったと思います。
電話ではしゃべり足りなかったものですから、といいわけをしてまた彼女に手紙を書こうと思いました。
今回も最後まで読んでくださってありがとうございました。
ナース刺繍は現役看護師兼、刺繍家の私が人体・医療をモチーフにした制作をおこなっています。
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