見出し画像

短編小説「幻馴染」

※第二回杉村幻想短編文学賞 選外佳作作品

 キミは忘れてしまったかな。
 膝の上までぴんっと伸びた夏草を。雲は高くゆっくり流れキミはその下、若苗色を掻き分けて進む。丈の短いズボンから伸びた足に、剣みたいな葉先が擽ったい。
 かさかさ、と音を立て、キミの前から右と左に流れて行く夏草は、いつかキミがお父さんと乗ったボートの舳先で見た海の、緑青色の波のよう。
 キミに驚いて草の影からぴょんっと跳ねるバッタは魚、追い越し追い越せするトンボはウミネコみたい。

「あっ」
 
 後ろで声がしてキミは振り返る。そこにはキミが掻き分けて、揺れる草の余韻しかない。立ち止まって耳を澄ますと、どこかで鳴いてる蝉の声がさっきよりも大きくなった。じわじわじわじわ、みいんみんみんみいん。
 風に流れた大きな雲が、キミの頭の上に来て、木々の影が少しぼやける。 

 ── あの池は底なし沼だから行っちゃダメなんだよ。
 キミはクラスの友達が耳元で教えてくれた、そんな言葉を思い出す。

 ── 知らない人にはついて行ってはいけません。
 蒸し暑い体育館で体操座りをして、眠気の中で聞いた校長先生の言葉を思い出す。

 ううん、最初からひとりだった。キミがそう思いかけた時、草の下からひょこっと黒い小さな頭が覗く。キミはさっき踏みつけて、草の中に出来た道を少し戻る。黒い小さな頭の下から、今度は白い小さな手が伸びて来て、キミの手首をぎゅっと掴んだ。キミを両手で掴んだ白い手は、しっとりしているのに、少しひんやりする。
 力いっぱい引っ張られ、地面の緑と空の青が時計回りにぐるっと回った。
 草の上に仰向けになったキミのすぐ横に、俯せのまま、キミを見ている黒い瞳がくすくす笑う。艶々と光る黒い瞳を見て、キミはビー玉みたいだなと思った。それともキミはクワガタの背中みたいだなと思った。

 
 ビー玉みたいだなと思ったキミは、家と学校の間にあった空き地まで、手を繋いで走った。木の杭が打ち付けられ、黄色と黒の縞々のロープが二列に張ってある。それとも少し赤茶けた、棘の突き出たワイヤーに、青いビニールが引っ掛かっている。
 空き地の隅のU字溝。隠したクッキーの缶の蓋をじゃあん、と言ってキミは開ける。

「わあぁ」

 声と一緒に溢れた溜息が、すぐとなりに並んでしゃがむキミの顔の産毛に触れる。キミが家から運んで来た宝物に黒い瞳がさらに光った。
 ガチャガチャで引いた小さな勇者の剣。割れてしまったアンモナイト。ホログラムのチョコのオマケの四角いシール。おばあちゃんの家の近くの駄菓子屋で、買ってもらった青色に、砂糖をまぶした大玉の、飴みたいな大きなビー玉。キミはそれを缶から出して、手のひらで少し転がす。人差し指と親指で、つまんで目にぴったりと当てると夜の星を見ているみたい。キラキラ光る夜空の星は全部遠くの太陽で、地球に良く似た星があり、そこから宇宙人がUFOに乗ってやって来る。

「そんなの嘘だよぉ」

 くすくす笑われて、キミは少しムッとする。目に当てたビー玉をキミを笑う瞳にぴったり当てた。キミがそうした手の上から、白い手が重ねられ、ふたりで黙ってしゃがんでいると、どこかで鳴いてる蝉の声がさっきよりも大きくなった。じわじわじわじわ、みいんみんみんみいん。

 クワガタみたいだなと思ったキミは、国道の下を潜る地下通路を、手を繋いで走った。抜けた先の雑木林は落ち葉と枯れ枝が重なって、踏みしめるたび、理科の授業でみんなで植えた、アサガオの鉢みたいな匂いがする。それとも夏休みの工作の、材料を買いに行ったホームセンターの、園芸コーナーみたいな。
 クヌギの木のY字に分かれた幹。隙間に手を入れてじゃあん、と言ってキミは掌を開く。

「わあぁ」

 驚きと一緒に弾んだ声は、寝ぼけ眼のクワガタも驚かせ、六本足の爪先がキミの掌を擽る。玩具みたいに開いた、右と左の鋸顎に黒い瞳がさらに光った。
 まっすぐ伸びた握りやすい枝。掌よりも大きな葉っぱ。深紫色の粒がたくさん集まった葡萄みたいな房。帽子を被った大粒の、どんぐり散らばる木の根元、キミが掘り起こした少し小さなクワガタ。木の幹に二匹のクワガタを向かい合わせ。大きい方の黒い艶々したお尻を、キミは指で突く。鋸顎を噛み合わせ、のこったのこったと、指で押されるクワガタはお相撲さんみたい。キミの大きなクワガタが、小さい方を持ち上げて落とす。

「そんなの狡いよぉ」

 ぐすっと鼻を啜られて、キミは少しぎょっとする。少し迷って手のひらを、涙が伝うほっぺたにぴったり当てた。キミがそうした手の上から、白い手が重ねられ、ふたりで黙ってしゃがんでいると、どこかで鳴いてる蝉の声がさっきよりも大きくなった。じわじわじわじわ、みいんみんみんみいん。

 草の上に寝転んで黒い瞳を見ていたら、キミは明日はそうしようと思った。
 見上げた夏草の葉先から、ショウリョウバッタが落ちてきて、黒い瞳のすぐ横の白いほっぺたに止まる。黒い瞳はまん丸になって、ショウジョウバッタが逃げないようにそっと瞳を横に動かした。ゆっくり動く振り子のように、黒い瞳がキミとバッタを行き来して、最後に、にぃっと三日月みたいに曲がる。
 今そっと手を伸ばしたら黒い瞳のすぐ横の、ショウリョウバッタを捕まえられるかも知れない。そう思ってキミは手を持ち上げようとするけれど、白い両手がキミの手首を、掴んだままで動けない。キミの手首を掴んだ白い手は、ひんやりするのに、少ししっとりしてる。
 キミはこの手を振りほどいて、ショウリョウバッタに手を伸ばす。それともショウジョウバッタを見送って、キミは手首を掴まれている。黒い瞳はくすくす笑い、キミはビー玉みたいだなと、クワガタみたいだなと思う。どこかで鳴いてる蝉の声がさっきよりも大きくなった。じわじわじわじわ、みいんみんみんみいん。

 かさかさ、と音を立て、風が夏草を揺らし迫って来た。

「あっ」

 草の上に寝転んだキミの上を風が通り抜け、ショウリョウバッタは跳んで行った。追いかけるように、キミの手首を掴んだ白い手は離される。黒い瞳が視界からさっと消えて、キミはゆっくり立ち上がる。そこには風が撫でて行った、揺れる草の余韻しかない。

── あの池は底なし沼だから行っちゃダメなんだよ。
 キミはクラスの友達が耳元で教えてくれた、そんな言葉を思い出す。

 ── 知らない人にはついて行ってはいけません。
 蒸し暑い体育館で体操座りをして、眠気の中で聞いた校長先生の言葉を思い出す。

 ううん、最初からひとりだった。
 ねぇねぇ、キミは忘れてしまったかな。

(了)

いいなと思ったら応援しよう!