【in my book_#1】 町田康 『生の肯定』
初夏のある日、帰省した時のこと。
実家の本棚には「町田康」の本がたくさんある。CDもある。
おそらく、全作品あると思う。
すべて弟が買い集めたものだ。
その中から、一冊だけ選んだ本が「生の肯定」
最初の1文だけ読んで、何となく決めた。
弟は町田康のファンだった。
何がいいのか?自分にはわからず、弟の生前はまったく読まなかった。
町田康のバンド「INU」の音楽も聴かなかった。
けれど、メディアにほとんど出ないであろう町田康がTV出演するニュースを知った弟は、柄にもなく、その番組を予約録画して、放送時間になるまでTVの前で楽しみに待っていたことを覚えている。
「自分で書いた歌詞なのに、紙に書いて見ながら歌ってる!www」
それは、町田康が何かのフェスで何万人という観客の前で、近所のスーパーに行くような軽装で、メガネをかけて、下を向きながら必死に歌う姿だった。
そんな、飾らない、素直な人柄が気に入っていたのだと思う。
「弟は町田康のファンである」
兄である自分は、弟の好きな音楽、アーティスト、その他のことに否定的だった。どこか、素直に認められなかったのだ。
いや、正確には認めていたのだが、お互い同じ方向を目指そうとしているから横道に外れたら困るというような、おせっかいな感情があったのか?
「他人を認めたら自分がなくなる」と思い込み、「反骨心を持ってこそ個性だ、他人なんか認めてはいけない」と、一番身近な存在である弟には自分の素直な気持ちをぶつけていたのかもしれない。
けれど、お互いを「肯定」することが出来たら、この本に書いてあるような葛藤もなく、今とは違う自分になっていたのだろうか?
世の中を敵対視している孤独な人間にとって、兄弟である唯一の共感者を「肯定」することは希望と可能性に満ちていた。しかし、そうならずに今がある。
「誰かを肯定するとは、他人を受け入れ、認めること」
それは、排他的で屈折した考えの兄を持つ弟からすると、恥ずかしいことだったのかもしれない。
「肯定」してもらえないであろう自己主張だったのかもしれない。
けれど、「いいものはいい」「こうありたい」「こう思われたい」という人間のもっとも普遍的で、純粋な感情の代弁者である「町田康」。
それは、弟にとって「恥じる必要のない人間らしさ」を伝える人物。
兄弟としてお互いを認め合う「肯定」の必要性。
そんな存在だったのか?
「生の肯定」には、そういった人間の葛藤が描かれている。
自己肯定、自己承認、自己評価。自我を持つ人間の孤独な戦い。
他者とのギャップに苦しみ、もがき、悩む姿。
そして、そうした世の中で生きる我を肯定することで、「生きるとは何か?」を問い続ける。
この本を読んで、弟がなぜファンなのか?少しわかった気がする。
それは描かれている世界観が、弟の内に秘めた人間性と共感する部分が多いからだ。
ずっと同じように育って、生きてきた兄弟だから、こういう感覚は何となくわかる。
そうした言葉にすることが難しい表現は英語だと簡単である。
「Empathy」というものだ。
確かに、弟が記した文章とスタイルが似ていると感じた。
「こういうことを表現したかったのか?」
色々と思うことはあるが、少なくとも弟を「肯定」するかのような響を持つ「町田康」。
Empathyを感じることができるなら、他の作品も読んでみようと思う。