(ユーモアのある)謝罪文
以下は、架空の状況設定の謝罪文。
この文は、謝罪文というのを出す風習がないコミュニティー(学校、部活
何らかの施設、サークル等)で、大した事でないルール違反について、
同じルール違反を再度行い、その上でユーモアを入れてみた、という状況に
しました。
(会社内のような責任を伴う場所を想定していません)
A4、一ページにきちんと収めています。
(1ページというのは非常に重要。めくる作業、裏面を見る作業が煩雑なのと
シンプルでなく、美しくないから)
以下、謝罪文(という形式をとった別のもの)の原稿。
今回、周知されている件について
日頃からお世話になっています。
また、今回の件でご迷惑をおかけしました事を重ねてお詫び致します。
これを機会に、わたしの素直な気持ちをお伝えできればと、
重い気持ちで筆を取りました。
わたしにとってこの場所は、集団で適切な行動をとる練習の場となっています。
集団において重要なのは、ローカルルールの遵守によりコミュニティーの信頼を
得ること。
ルールを守らなければ全体の不利益となり、排斥する動きが生じます。
一方で、物事を複雑にしているのは、
「あらゆる規則は許容される範囲が想定され設計される」
例えば10時までに出席する規則。しかしAに報告するのは10時30分。
この30分は、明らかに遅刻する参加者を想定したもの。
法定速度も10キロを超えなければ見逃される。送検せず取り調べもない微罪処分
となる軽微な犯罪。
そして有罪でも刑罰を免れる執行猶予。
この社会的、普遍的な原則がわたしの判断ミスを引き寄せるノイズとなりました。
Bで使用したのはC。規則はD。その結果、バレなきゃいっか、との判断に
至りました。
人のこころもまた諸行無常であり、常に移ろいます。一度決意したこころも
揺れ動く。
失敗し、擦り傷を一つ増やしながらもなお、次に生かそうと思う心に、わたしは
人という、か弱い生き物の価値を見るのです。その人にとって転んでも人生は
続くのですから。
叱責と罰。それらを甘んじて受けましょう。あたかも十字架にかけられた
父なるキリストのように。
しかし恨みだけが残り、自発的に次に生かそうとする、粉雪で隠れた
桜の花のつぼみを摘むことにならなければ良いのですが。
仔猫がおもちゃに足を取られて転び、再び歩き出そうとする時に親猫は仔猫を
はたくでしょうか。
今回、親猫のEさんをがっかりさせました。その気持ちは、気にかけて
くれているという事。胸の深くから、高尾山の山頂で飲む、お汁粉のような温もりを感じます。
お読みくださりありがとうございました
濡花 詩雨(27)
以上が原稿。
冒頭で謝罪文のテイストを出しつつ、いつの間にか一般論になり、間接的に
わたしを責めたりするのは良くない、と案に暗に示し、責任者からの愛情を勝手に
受け取り、何だかよくわからない事になっています。
それを、ユーモアのように受け取るかは、読み手との提出者との
関係性によるのですが。
真面目な謝罪文を書いていたら、退屈になってきてこのような形になりました。
これはこれで、さまざまなテイスト、内容の文章を書けるサンプルになるかと
思い投稿します。
(アトリエ 森のしぐれ のホームページでサンプル文のリンク先がここになって
いますから)
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