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理想


猛暑だなんだと言われ続けた夏も、その終わりは呆気なく、一度秋の風が吹き始めると街は途端に暑さを忘れて、思い出したように金木犀の香りをつけ始めた。
朝の冷え込みは既に冬の気配をはらんでいて、その冷え込みはもう直ぐ一年が終わるのだと言うことを暗示しているように思える。
夏の朝のねっとりとした粘着質の嫌な感じは無くなり、お陰で寝起きはとても心地よい。


近頃の私には踏ん切りつかないことがある。
もっとも、定食屋で食べるものひとつ即座に決断できない私にとっては、日々が踏ん切りのつかないことで溢れかえっているわけなのだが、その中でもとりわけ私の心につっかえていることといえば、新聞をとるか否かということなのである。

昨今、新聞など読まなくても、ニュースはインターネットで事足りるような世の中となり、金を出さずともある程度、世の中の出来事は把握できるようになった。
実際問題、新聞をとる人間は年々減っていっている始末で、齢三十を越えた私の身の回りには、新聞を定期購読しているなんて人間は皆無なのである。
もっとも、ちんぴら稼業の私の周囲に、どれだけ真っ当な人間がいるのかと言うことは付け加えておかねばならないのだが。


「タダより安いものはない」


その言葉の示す通り、無償で手に入るものなんてのはたかが知れている。
飯も服もサービスも、安かろうは悪かろうであるし、「値段の割に」、「コスパ」なんてのは所詮はまやかしであって、本当に有益なものには相応の値段がつけられている。
そんなことだから、タダで手に入るものはあくまで、相応の価値しか見られない。
無論、使い方次第では無償のものであっても、実際以上のものになり得ることもあるのだが、それでも「対価」というものは無視はできない。


事実、インターネットで見られるニュースには偏りがあるし、世間が騒げば手元に現れるものは、それ一色となる。
ある程度、満遍なく網羅する事はできるものの、重大な出来事が見落とされていることも多々ある。

とまあ、昨今のニュースというものに対して思うことはあるのだが、問題の核心は別のところにある。


先日、喫茶店で珈琲を飲んでいると、おっさんが一人店に入ってきた。
彼は入り口付近に並べられた新聞を軽く物色し、スポーツ新聞らしきものを手にとると、関ヶ原の残存兵のような覚束ない足取りでこちらへ歩いてきた。
彼は尻に刺さった矢でも抜くような顔で、私の隣の席に腰掛けると、ザバッと音を立てて新聞を開いた。

クタクタになるまで着古されたラクダ色のジャンパーに、シワクチャなチノパン、靴はショッピングモールで売っているような、スポーツブランドのロゴの入った合成皮革の靴、その身なりはお世辞にも清潔感があるとは言えなかった。

彼は体に燃料を注ぎ込むように煙草を吸いながら、新聞を眺めていた。
紙面を一枚めくるごとに、まるで戦没者を悼むような苦々しい表情を浮かべていた。


そんな彼こそが、私の理想のおっさんであった。
身なりに歩き方、所作に至るまで、全てが完璧だったのである。
私は彼になりたいと思ったし、それは三十年後の自分であるようにも思われた。


しかし、今の私には決定的に欠けていることがあった。
それは「新聞を読む」という習慣なのである。


日頃ドラマや映画を観ていると、俳優が煙草を吸うシーンを見かけることがある。
その中には、「あぁ、この人は本当は喫煙者ではないのだな」と思うことがしばしばある。
煙草を吸う際の所作や表情というものは、実際の喫煙の習慣なくしては表すことのできないものがある。
それと同じように、日頃から新聞というものに慣れ親しんでいなければ、喫茶店で新聞を広げてみたところで、子供がテレビ番組欄を眺めているのと、何も変わりはしない。
本当の凄みというものは、矢張り生活の中から紡ぎ出されるものなのである。
今の私のまま、いくら歳だけを重ねていったとしても、紙面をめくる際のあの表情は出すことはできないだろう。
それができない者の足取りは、あのような英雄じみたものにならないし、煙草はあくまで燃やした葉っぱのままであろう。


私は彼のようなおっさんになる為の、選択をせまられている。

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