信仰について-キリスト(その3)【バプテスト初歩教理問答書】
キリスト教の教理問答書を読んでみるシリーズです。
これが正しいというのではなく、いちクリスチャンとして好き勝手に思うこと感じることを書いています。
引き続き『バプテスト初歩教理問答書』(1979年)から、
「Ⅱ信仰について」の「(3)キリスト(35-54問)」より、
王であるキリストについての部分です。
Ⅱ信仰について (3)キリスト -その3
第45問、神の国は民主制ではないよね
たぶん、日本の(おもにプロテスタントの)教会がけっこう、盛大に勘違いしていると思うのだけど、「神の国」は民主制ではなく、イエス・キリストを王とする王制なんですね。
王制では、主権者は君主である王ただ1人。キリストが王であるということは唯一の主権者ということであって、人間には主権はありません。
それが、キリストの名はすべての主権の上にあり(エフェソ1:21)、神が唯一の主権者、王の王、主の主である(一テモテ6:15)ということです。
聖書よりも上に日本国憲法をかかげているとしか思えない牧師もいるけれど(個人の感想です)、来たるべき神の国では「キリストは王として、新しいエルサレムの神殿の奥深くにいてください。神の国は私たちが民主的に運営します」ということにはならないのです。
聖書には、キリスト教徒がキリストと共に治めることになるという記述もあるけれど、それでも主権はすべて三位一体なる方にのみあるというのが、聖書が示している神の国のありようです。
人の世の王と違うのは、「どの王に支配されることを選ぶか」の完全な自由があるということ。キリストの王国か、キリストに敵対する者の王国か、どちらでも私たちは自由に選べる。
第46問、王は必要?
この問答は正直よくわからない。
「民を守る者が必要だろ、それは王だ」と言いたいっぽいけど、でもそれなら王でなくても「なぜ、あなたは共和政府が必要なのですか」という問いでも同じになってしまう。
民主制と王制の違いは、王制が「王は民の意志に関係なく存在する」「王の主権つまり意志によって民を守る」であるのに対し、民主制は「首長は民という主権者の意志によって存在する」「首長は民の要求によって民を守る」というところだと思う。
だとしたら王などいらない、民主制の首長こそ、民を「他人ごとではなく自分ごと」として守る者だ、となってしまう。
私に「王としてのキリスト」が必要なのではなく、
ただ「私の王であるキリスト」がおられるのだと思う。
第47問、受難日の扱いが小さいよね
プロテスタント教会で、「クリスマスおめでとう」のあと「イースターおめでとう」になってしまうことには昔から違和感があって。
クリスマス礼拝を待降節第4日曜日におこない、イースター礼拝も日曜日であるのに対して、聖木曜日(洗足木曜日、主の晩餐)も、聖金曜日(受難日)も平日だから、盛り上がらないんだろうか。
受難日や主の晩餐の金曜日に集まる教会もあるけれど多数派ではないように感じるし、そうした教会の中でもマイナーなイベントになっていて、受難週のうちからイースターをお祝いすることに気が向いている印象があります。
聖書は「主の死を告げ知らせよ」と命じてるんだけどなぁ。
「キリストはどのように低くなられましたか」という問いだけなら、「神様なのに人となって世に来られた」に目を向けてしまうような気がする。
でも「十字架の死にまで」低くされたというのが肝腎。
十字架ということは罪びとの一人に数えらえたということ。
つまり、聖なる父から捨てられたということ。
これは肉体が死ぬことよりも恐ろしいということを、イエス様は知っていた。だから、たった三日でも死ぬことを避けられるならと、ゲツセマネで本音を父に投げたのだと思う。
クリスマス(降誕)やイースター(復活)を喜ぶのはいいけれど、その前に主の受難をこそ記念し、告げ知らせるのでなければと思うのだけど。
第48問、キリストは貧しく苦しかった?
答の「貧しくて苦しい生活でした」というのはよくわからない。そうした根拠があるのだろうか。
公生涯の前でいうと、赤ちゃんイエス様のお宮参りの際にヨセフとマリアが「山鳩一つがい、あるいは家鳩のひな二羽」を奉献したことから(ルカ2:24)、羊を買ってささげられるほどには経済的余裕がなかったことはわかります(レビ記5:7)。
だとしても「富裕層でなければ、貧しくて苦しい」というのは極端じゃないかなと。
公生涯ではどうだろう。
確かに、財産を手放すことをたびたび教えている。でも一方で、弟子たちの中に会計係がいたことも書かれている(ヨハネ福12:6)。弟子たちに「財布も持たず」と命じたのは(ルカ10:4)、弟子訓練が目的だと思う。派遣するにあたって「財布も袋も持たず」と命じているということは、弟子たちが普段はそれらを持っていたということじゃないだろうか。
裕福ではなかっただろうけど、貧しく苦しかったとも思えない。
ブルジョワと、ブルジョワに搾取される貧困層という、二極対立というか階級闘争的な聖書の読み方をしたがる人が、私の周囲のバプテスト主義者にもわりと少なくないのだけど。
あと、時代劇とくに水戸黄門を知ってる世代だと「庶民=貧しくて踏みにじられている人々」というステレオタイプで生きてるみたいなクリスチャンもいるけどw
次回は
次回も「信仰について」の章の「(3)キリスト」から、問49-54、十字架と復活と再臨について考えてみます。
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