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信仰について-人間(続き)【バプテスト初歩教理問答書】

第23-28問、罪に関する問答を読んでみました。
ちなみに第29-34問が、アダムとエバが神にそむいたことについてになります。

Ⅱ 信仰について (2)人間

第23問、神とのデジタルな関係

第23問 神さまは、アダムとどんな約束を結ばれましたか。
答 もし、アダムが、神さまに完全に従えば、永遠の生命(いのち)が与えられるということです。
創2:9,17

『バプテスト初歩教理問答書』

正確には、神はアダムに「神に従わなかったら死んでしまう」と言ったのであって、「従えば永遠の命」という約束ではないのだけど、結果的には同じことか。

答の「完全に従えば」が肝だと思う。
キリスト教はある意味、デジタルだ。「罪があるか、ないか」の2択しかない。罪フラグがオンかオフか、ゼロか1かしかない。

罪というものは、「どちらかといえば罪がある」「あの人ほど罪深くはない」というグラデーションはなくて、「完全に従う」「ちょっとでも罪がある」のどちらかしかない。
そして罪の赦しというものも「99%赦された」「1%赦された」ではなく、「完全に赦された」「まだ許されていない」のどちからしかない。

二元論はユダヤ教やキリスト教がヘレニズムと出会ってから入って来た者だとは思う。少なくとも聖書そのものには二元論で整理できないことがたくさんある。ただ「罪があるか、ないか」「赦しを受けた、受けてない」については、どちらかしかない。

第24問、永遠の死

第24問 もし、アダムが神さまに従わないならば、どうなりますか。
答 永遠の死をもって罰せられます。
創2:17

『バプテスト初歩教理問答書』

創世記2:17
しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。

『聖書 新改訳2017』

アダムが罪を犯す前は、この世界に「死」はなかったことになる。
なのにこんなこと言われても「死ぬって何ですか?」だと思うんだが。神様ちょっと不親切でないかい?

「永遠の死をもって罰せられます」はよい表現と思う。
神に従うなら永遠の命、従わないことを選ぶなら滅び、という説明だと、滅んでしまって消滅というイメージになりがちじゃないだろうか。
でもヨハネ黙示録を見ても、地獄と呼ばれる永遠の炎に投げ込まれるのが最終状態なんだよね。「死んでおしまい」ではなく、「永遠に死を経験し続ける」なんだよな。怖っ!

第25問、アダムが従わなかったから

第25問 アダムは、神さまに従いましたか。
答 いいえ、食べてはならないと命ぜられた木の実を食べて、神さまにそむきました。
創3:6-8,13

『バプテスト初歩教理問答書』

新約聖書は「アダムは悪魔にだまされなかったが、イヴはだまされた」という書き方をしている。それがキリスト教徒の「聖書は男尊女卑を支持している」という理屈になってきた。
でも新約聖書は「アダムによってこの世に罪が入った」とも言っている。イヴによって罪が入って来たと書いているところはなかったと思う。責任はアダムにある。

第26問、律法の話じゃないと思う

第26問 神さまのいましめ(律法)に従わず、それにそむくことをなんといいますか。
答 罪といいます。
Ⅰヨハ3:4

『バプテスト初歩教理問答書』

ヨハネの手紙第一3:4
罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。

『聖書 新改訳2017』

律法ができた(神さまから授かった)のは出エジプト記。それまでは律法として神から提示されたのではなく、神と人との約束というかたちだったんだけど、参照箇所は律法ありきになってるなぁ。
確かにパウロも、旧約律法があるから罪になると書いている。罪刑法定主義みたいでわかりやすい。でもアダムたちは律法以前の時代を生きていたのだし、ぼくらは新約律法(イエスの掟)の時代を生きていてしかも異邦人は偶像礼拝以外の旧約律法を免除されている(使徒15:8,10,29)。

第27問、「神さまのお求めどおり」にしなければならないのか?

第27問 いましめに従わないとは、どういうことですか。
答 神さまのお求めどおりにしないことです。
ロマ1:32

『バプテスト初歩教理問答書』

ローマ人への手紙1:32
彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。

『聖書 新改訳2017』

そうそう、むしろこっちが第26問よりも本来的でしょう。
律法以前から「神さまのお求めどおりにしないこと」が「罪」なんだよな。

ここで「神の求めどおりにしなきゃならないって、人間の尊厳や主体性は!」というのは的外れなのだけど、それを受け止めるのが難しいんだよな。人間は人間至上主義が自然だから。
特に日本だと、神なんていうのは人間の願いをかなえてくれる存在、言うことを聞いてくれる存在、つまり「人間に神が従う」という関係性。だから人間が神を倒すとか滅ぼすというファンタジーも普通にある。
でも聖書は、主(ヤハウェ)と名乗る神はそうした存在ではないと、「神に人間が従う」という関係性だという宗教。
だからって「人間の尊厳や主体性は!」と言わなくてもいい。人間には「神に従わない自由」もあることを聖書は言っている。つまり「神さまのお求めどおりにしない」という選択。
アメリカで生きているアメリカ人に、日本人が日本の法律で「銃の所持は犯罪だ」といっても、「私は日本の法律の支配のもとにはいない」と言われるだけでしょう。
同じように、聖書の神のおきてのもとにいない人に「それは神様のお求めどおりではないから罪だ」といっても意味はない。本当に「聖書の神のおきてのもとにいない」ならば。

しかし。参照箇所はロマ1:32でいいのか?

第28問、禁止事項をしない、だけでよい?

第28問 いましめにそむくとは、どういうことですか。
答 神さまがしてはならないとおっしゃることを、することです。
創2:17、3章

『バプテスト初歩教理問答書』

「いましめ」についてばかりだから、禁止を破ることだけになってしまうのはわかるけど。いましめに従わないとは「神さまのお求めどおりにしないこと」だと第27問で言ってるのだから、「神さまがしなさいとおっしゃることを、しないことです」もないといけない。
その点で、カトリックの「回心の祈り」はとても参考になる。

全能の神と、兄弟姉妹の皆さんに告白します。
わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました
聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟姉妹の皆さん、
罪深いわたしのために神に祈ってください。

「回心の祈り」

「神さまがしてはならないとおっしゃったこと」を思うのも、ことばにするのも、行うのも罪。
「神さまがしなさいとおっしゃったこと」を怠るのも罪。
ぼくもプロテスタントだから、上記の祈祷文には「ん?」と思うところもあるのだけど、それを超えて「カトリックって、人間をわかってるよなぁ」と思ってしまう。

次回は

次は「信仰について」の章の「(2)人間」の最後、アダムとエバが神にそむいたこと、その結果どうなったかについての問答を読みます。

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