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私のマシンたち

ミシンについて書こうかな、と思ったところで、あれは「マシーン」だから、他のマシンについておぼろげな記憶の穴を掘っていたら、意外な掘り出し物が出てきた。

古い映画なのでもう誰も知らないかもしれない。「河は呼んでる」というのを見た記憶がある。テレビが始まった頃は、番組作りが間に合わなくて、よく映画を流していた。学校から帰ってくるころ、覚えているのは「透明人間」の映画(包帯でぐるぐる巻きの)を飽きもせず一週間続けて放映していた。それでも時間が余るらしく、テストパターンという図だけを流していたものだ。

その「河は呼んでる」という映画もテレビで見たのかもしれない。「デュランス川の、流れのように」という歌がヒットしていたように思う。その中で、主人公の若い女性がスクーターに乗るシーンがあった。そのスクーターがよほど気にいったのか、ある時私はそんなスクーターに乗りたいと思った。しかし、そういう知識が皆無だったので、メカに詳しい弟に相談すると、彼は自分のイチオシのオートバイを勧めてきた。

理詰めで説明を受けると、私の綿菓子のようなイメージは根拠を失って空中分解し、なぜだか私は思っていたより高性能のバイクに乗ることになった。そしてワクワクもドキドキもないまま練習中に、道路の砂にスリップして、電柱に激突し、そのマシーンとの関係は泡のように終わったのだった。

家にあったミシンは、父がどこかで買ってきた「NISSAN」という文字が透かしてある足踏みミシンだった。革のベルトが付いていて、足で踏み板を前後にゴキゴキ漕ぐと、ベルトがはずみ車を回し、カムが運動を上下運動に変換して、運針ができるようになっていた。

私が自分用に買ったのは、電動の蛇の目ミシンだったように思う。それをジグザグ付きに買い替えて、長く使った。それから直線専用ミシンと裁ち目をカットしながら始末していくロックミシンを揃えた。これは頑丈で、もう何回もメンテナンスに出しながら、使い続けている。

実はもう一台ミシンがあって、それはチェーンステッチのミシンで、袖口とか裾周りの仕上げを覆ってきれいに縫うことができる。長く箱にいれたまま、放置状態だったのを先日メンテナンスに出して、今また現役復帰している。説明書をふむふむと読みながら、端切れで試し縫いを繰り返している。

マシンの仲間に自転車を加えてもいいのかどうか知らないけれど、私が始めに自転車に乗ったのは、子供の幼稚園が遠すぎて、お迎えに歩くと1時間もかかったからだった。子どもの足でゆっくり歩いて連れていく。また、帰りに迎えに急いで行くと、何やら約束が成立していて、どこかのお家に向かって歩き、また夕方連れ戻しに出かけることがあった。

大人になるまで乗ろうとも思っていなかった自転車に「乗らないといけない」と覚悟して、公園で練習を重ねた。アチラコチラによろよろしながら、子どもを背中側に乗せて、なんとか自転車で一人前に送り迎えできるようになった。なんだかその時、小さな達成感があった。

車の免許は社会人になって、夜間の教習所に通って取った。夜はライトがついて対向車が見えるので、たまに昼間の時間に教習場に行くと、かえって戸惑った。狭い教習所で「思い切ってアクセルを踏み込め」と隣に座った先生が言うので、思い切って踏み込んだら、急ブレーキをかけられて叱られた。崖っぷちにある教習所で40キロオーバーだったそうだ。あのころは怖いもの知らずだったのか、緊張しすぎだったのか、よく覚えていない。

車はマニュアル車だった。トップの上にハイトップまであって、踏切でローに落とすと、また1段ずつギアを上げていく。坂道が多くて、信号で停まると発信するときに、後ろに「ウン」と下がったりしないように、緊張した。そのあと、オートマチックに買い替えた。これはギアがきちんと入っていないような、曖昧さが不安だった。

私は車を運転するのが好きではなかった。一度にいろいろなことに目配りしなければならず、しかも間違っても他人に怪我をさせてはならない。いつもドライブを楽しむことより、緊張のほうが多かった。自分の感知できる速度より、車は早すぎた。私はある時手放すことにした。

コロナ禍の今、それは不便かもしれない。自分で病院へ行くこともできない。何かを選べば、何かを失う。今となっては、それも運命だと受け入れるしかないだろうと思っている。



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