縁側の思索 -尾道① 志賀直哉旧居にて-
青春18きっぷを使った2泊3日の旅。
1泊目は尾道、2泊目は別府。
旅ノートをつけるようになったのも、この旅からだ。
今ではもう旅ノートも10冊目に突入しているが、1冊目を読み返すと、今でも、不安と自由に圧倒されて研ぎ澄まされた、若い自分の感性に出会うことができる。
世間知らずで、不器用で、感情的で、不確かで、つまらない悩みごとばかり抱えて滅入っていた頃。
できれば忘れてしまいたい幼さではあるけれど、あのときにしか書けなかった言葉、あのときにしか気づけなかった感性が、その土地の空気と一緒に、汚い字の間に冷凍保存されている。
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(2011年2月5日 16時頃 到着)
海に面した場所にある尾道市。
坂道が多い街で、ひしめくように建つ古い家々はとても風情がある。
この時期、この時間帯は観光客も少ないようで、ひっそりとしていて良い。
古寺巡りなどもあるが、まずは志賀直哉の旧家に行ってみた。
細い路地を上っていくと、小さな公園があり、詩や歌の石碑があった。その上に旧家。
あいにく閉館時間を過ぎてしまい中に入れなかったが、小さな家で、古い木の戸である。石畳や木々とよく似合っている。
縁側には風鈴が飾ってあって、季節外れの音が時々鳴っている。
夕方で、カラスや鳥の声が聞こえる。
縁側に座って景色を眺めれば、向かいの木に、さっきからずっと一羽の鳥がとまっている。
眼下には尾道の街と入江、向島が木々の向こうによく見える。
目の前の枯木には、実の食われたみかんが刺してあり、何とも懐かしい。
近くの民家からは、時折物音が聞こえ、人が生活しているのだと実感する。
こんなふうに、ごく普通に、文学者志賀直哉もここに生きていたのだと考えると、拍子抜けしたような、ほっとするような、不思議な心持ちである。
彼もやはり、木の枝の先にみかんをつけて、この縁側に座ってウグイスを待ちながら、小説の構想を練ったのかもしれない。
いま、ウグイスが木に刺したみかんに飛び降りて、一口つついて飛び立った。
こんな風にゆっくりと何かを眺め、風情を感じる時間を、皆が失っている気がする。
「ふるさと」を忘れてはならない、と思う。
「ふるさと」とは、こんなふうに、ああいいなあと感じること。そうすることを忘れてしまえば、土地はあれど、それはもう「ふるさと」ではなくなる。
忘れかけているもの、失われてしまったものを、ふっと思い起こさせる、そして無性に懐かしく、身近で、郷愁漂うようなものを書いてみたい。
忘れているものを思い出すのは難しい。
何かをなくしたような不安な気持ちになり、それが分からないと感じたら、今回みたいにまた一人旅に出るのもいいかもしれない。
冬の空気は澄んでいる。
書くのに夢中になって気づかなかったが、いつの間にか、私の足元に猫がいる。
人慣れしているのか、私をじっと見て、見返しても逃げない。
またみかんにウグイスが来ると、パッと反応して、獲物をとらえる格好になった。
こういうものを見る機会もなくなった。
この日見たもの、忘れずに大事にしていこうと、改めて思う。
さて、そろそろ行こうか。日もだいぶ落ちてきた。
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最後までお読み頂きありがとうございます。
かなり昔に書いた駄文ですので、稚拙な表現も多く、読みづらい部分もあるかと思いますが、
当時の感性やその土地の臨場感をなるべく忠実に再現できるよう、あえて手を入れずに書き起こしています。
何卒ご理解いただけますと幸いです。
最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。