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トレピックによるプレリュード【再録】

かつて、ギターマンドリン音楽を愛する人たちが集った「藤掛廣幸ファンのページ」に、私の文章が掲載されていました。

「トレピックによるプレリュード」

台風接近により中止となった、第27回全国高校ギターマンドリンフェスティバルを、その3年後に振り返ったエッセイです。
この文のおかげで、多くの出会いに恵まれ、得難い経験をさせていただくことができました。

「藤掛廣幸ファンのページ」が閉鎖された今となっては、おそらく目にされることはなく、その記憶も消えていくのでしょう。

私の原点であるこの出来事を、私自身のためにnoteに再録します。
「幻の第27回」と呼ばれた大会に、立ち会った者の記録として。

なお、本文の記載は、誤字などを除いて当時のままとしています。
前のめりな文章も粗さも、かつての私の熱量だと思います。

また、台風による計画運休が当たり前となった現在では、感覚にそぐわないかもしれません。1997年当時のこととご理解ください。

 



 以下は、私にとってのトレピックプレリュードと、それが彩った想い出の略記である。
 


1997年7月26日(土)―第27回全国高校ギターマンドリンフェスティバル1日目―

午前8時

 私は学校へ向けて自転車を走らせていた。
 夏休みに入った直後にも関わらず、私の高校では、この週、先生から指名があった者を対象とする補講があった。当時、私は1年生だったのだが、早くも数学に悩まされ、この、ありがたいとは言えない御指名を受ける羽目になってしまったのだ。月曜日から金曜日までの5日間をきちんと勤めあげ、この日はとうとう最終日。

 とはいうものの、我がギターマンドリン部には、全国フェスティバル出場という、文句の付けようのない理由があったため、私を始め、補講を受けている部員達は、その数日前に公欠を願い出ていた。
 高校に入って、初めての公欠。
 無意味な喜びと、かすかな優越感が、その時の私にはあった。
 しかし、この、罰の対象となるにはあまりにもささやかすぎる感情は、天の悪戯によって脆くも打ち砕かれたのだった。

 台風9号の接近による警報の発令。
 多くの生徒は、気象台のこの判断を「運がいい」として歓迎したことだろう。
 普段の時なら、私も彼らの仲間として、おそらくゲームにでも興じていたはずだ。いや、この時間なら、布団のなかで熟睡か。
 実際、私が恨めしいと感じた警報は、現在に至るまで、この時をおいてほかにない。

 現在でこそ、こう回想してはいるが、この時点で、私が「恨めしい」などと感じていたかというと、大いに疑問の余地がある。ただ「なんだ、警報か」くらいの気持ちでいたのではないか。
 もっとも、このようなことは、今となっては確かめる術はない。
 ただ一つ言えることは、どちらの認識でいたにせよ、それはあまりに甘いものであった、ということだけだろう。

 風にハンドルを取られそうになりながらも、私は何とか学校にたどり着いた。
 見たところ、先生の車が数台止まっているだけで、人の姿はない。
 校内を走り抜け、駐輪場へ向かう。
 10分あまり風雨の中を駆けてきたとはいえ、自転車用の合羽を着ていたおかげで、制服が濡れたりすることはほとんどなかった。警報という割には、雨がそれほど激しくはなかったのもその理由だろう。自転車に施錠したのを確認してから、私は部室へ急いだ。
 
 ギターマンドリン部の部室は3階にある。
 階段を上るにつれ聞こえてくる、マンドリンの高らかな音色に、私より前に来てる人がいることを教えられ、足は自然と速まっていく。
 私が部室のドアを開けたとき、中にいたのはまだ数人。そのほとんどは1年生だ。私と同じように、楽器積みの仕事をあてられている。
 自然と交わされる朝の挨拶と、つい口に出る台風への不満。
 雑談とともに、時間は過ぎていった。
 

午前8時30分

 前日に指定されていた集合時間になり、そろそろ、ほとんどの部員が顔をそろえる。
 残るは、普段から遅刻がちな数人。
 彼らが来るのを待ちつつ、楽器の搬出が始まる。
 
 この年、我がギターマンドリン部には、二人の顧問の先生がおられた。
 一人は、40代半ばのN先生で、ギターマンドリンにも精通しておられるため、普段はこの先生がメインに取り仕切っている。しかし、N先生は全国フェスティバルの役員も務めているという都合から、既に大阪に入っており、この日は学校に来ることができない。
 かわりに指示をするのは、まだ20代と若い女性教師のT先生だ。
 いつもはN先生の補佐といった格好のT先生だが、この日はさすがに、生徒達に的確な指示をされている。
 この時、T先生の秘められた決意に気付いた生徒は、私が見たところでは誰もいなかったように思う。
 

午前9時

 大阪へ向かうためのバスが到着した。
 遅れてきた生徒も徐々に顔を見せ、あとは乗り込むだけ、となっていた私たちの前に、意外な人が姿を見せた。
 N先生だ。
 先に大阪へ行っている、と聞いていた私たちは大いに驚いたのだが、そんな中で顔に安堵の色を浮かべていたのがT先生。
 それとは対照的に、N先生には憔悴したものが感じられた。
 
 全員が乗っているのを部長が確認すると、バスは、学校に来ていた先生方の見送りを受けつつ学校を離れ、一路大阪に向かった。
 道中の高速道路では、台風の風にあおられてバスが流されそうになる、といった、そうそう経験できない出来事があったほかは、特記すべきことはなかったように思う。
 先輩達が歌うカラオケの美声(これにはいささかの誇張もない)のなかで無遠慮に眠る人はいたようだが。
 
 ここで、先に述べたT先生の「決意」について触れておこう。
 私がこのことを聞いたのは少し後だったのだが、T先生のその想いは、まだ若輩の私にもよく理解できた。
 
 T先生が気にされていたのは、やはり警報のことだった。
 これが発令されると学校は臨時休校になる。そこで、校長から「警報が出ているんだから、大阪行きはやめなさい」と言われることを心配していたのだ。これは結局杞憂に終わったのだが、確かに、十分考えられることだった。
「あの時、私は先生が帰ってこられてるとは知らずに、まだ大阪におられると思ってましたから、校長先生に『やめなさい』と言われても、私は『いえ、何としてでも絶対連れて行きます』って言い返すつもりだったんですよ」
 事態が落ち着いたあと、T先生はN先生に、このようなことを言っておられた。
 あの時の、先生のほっとした笑顔は今になっても忘れられない。
 
 N先生という、ギターマンドリン部の柱がこの場にいないのだから、「私がしっかりしなくちゃ」という思いと決意は、至極当然のことなのだろう。
 しかし、この言葉を聞いたとき、私は先生のギターマンドリン部にかける想いを実感できた気がして、ひどく嬉しかったものだ。
 

午前11時

 ホテルに着いた。
 私たちは翌27日に出場する予定だったので、泊まりがけの小旅行といったところだ。
 さて、バスが止まるなり、私たちは、楽器の運び出しにかかった。
 この時は雨が強く、楽器を濡らさないよう気を付けて持っていった覚えがある。
 荷下ろしを終えると、私たちはその足で会場に向かった。
 ホテルから会場まではほんのわずかな距離しかない。
 この会場で、私たちは信じられない貼り紙を目にしたのだった。
 

同刻

『台風接近のため、第27回全国高校ギターマンドリンフェスティバルは中止します』
 
 何が書いてあるのか分からなかった。
 中止という言葉の持つ意味が、理解できなかったのだ。
 
 正確な文面は忘れたが、入り口に張り出してあった紙には、しかし確かにこのようなことが書かれてあった。
 周辺には動揺する他校の生徒達の姿が見えた。
 そして、それは私たちも同じだった。

「中止……?」
 事態が飲み込めず、反応の仕様がない私をよそに、先輩達の中には泣き崩れる人もいた。
 当然だろう。
 私たちは、まだ来年以降に望みを託せる。
 だが、3年生はこの大会をもって引退するのだ。3年間の集大成の場が、台風という理不尽な理由で奪いさられてしまったのだから。
 
 あまりに意外かつ非情な通知に、その場にいる誰もが呆然としていた。
 

午後0時

 あらかじめ断っておくと、私はこの辺りの記憶があまり定かではない。
 やはり、動揺し、混乱し、戸惑っていたのだろう。
 よって、経過などを記すにとどめる。
 
 その後、第27回大会は発表研修会として行われる、ということを聞いた。あるいは、貼り紙に書いてあったのかもしれない。が、前述したとおり、確信はない。
 出場校の中には、交通機関が乱れ会場入りできない学校や、「大会が中止なら」という理由で、会場に来ていても演奏しないで帰る学校もあったようだ。
 ともあれ、説明を兼ねた開会式が行われ、プログラムは、会場にいる学校の演奏に移っていった。
 
 さて、私たちはこの日は出演しないため、1年生は椅子出しに励み、2,3年生は観客席で演奏を聴く、ということになっていたのだが、この時、私は会場のロビーで、3年生のS先輩と出会っている。多分、私は椅子出しの役を交代し、休憩していた時のことなのだろうと思う。
 この先輩は、当時の我が部の部長なのだが、偶然顔を合わせた私に、こんな事を尋ねられた。
「どう? 優秀賞とか出てる?」
 先輩は演奏を聴いていなかったのかな、などと思ったのだが、とりあえず思ったまま答えた。
「はい、結構出てますよ」

 このやりとりには、多少の説明が必要だろう。
 通常、全国フェスティバルでは、演奏に対し、講評者の先生方の審査により「努力賞」と「優秀賞」が授与される。聞くところによると、「奨励賞」もあるそうなのだが、私はその賞が与えられたという話を寡聞にして知らない。だが、今回は発表研修会のため、「優秀賞に値します」といった表現で本来の賞とは違う扱いになっていた。

 かつて我がギターマンドリン部はそれなりに繁栄し、部員数もかなりいたそうだ。が、その後衰退し、部員数も激減、数年前には存亡の危機すら迎えていたという。そんな窮状を立て直したのが、この時の3年生とN先生であり、その流れは2年生によって、より確固たるものとされていく。現在は部員50名を越え、全国フェスティバル出場校の中でも大所帯の部類に入っている。

 とはいえ、この時点では、まだ立て直しの前兆しかなかった。部員達は皆、久し振りの優秀賞を目指して練習してきたのだ。
 だからこそ、私は、「これなら、うちの部も優秀賞に値できそうですね」という意味を込めて、先程の言葉を返したのだ。事実、「台風の中、よく来られました」という意味もあってか、この日は優秀賞に値する演奏がかなり多かった。これはその後2年の経験からも確かだと思う。
 しかし、それに対する先輩の反応は、当時の私には非常に意外なものだった。

「そうなん? なら意味ないやん」

 衝撃だった。
「なんで?」
 という気持ちでいっぱいだった。
 だが、その後、私がギターマンドリン部での年数を積むにつれ、その気持ちは痛いほど理解できた。もし私がその時3年生だったら、同じことを言っていたのは間違いない。
 
 「優秀賞」にふさわしい演奏をしたと認めてもらいたいのであって、「優秀賞」という名前が欲しいのではない。
 
 先輩が言おうとしたのは、そして、現在の私が思っているのは、まさにこのことだ。
 そして、これは、この日の夜に大きな意味を持つ言葉として、私たちの耳に、そして心に届くのだった。
 

午後7時

 夕食。
 さすがにこの時ばかりは、皆、和気あいあいとしている。
 私も先輩や同級生達と談笑し、休息の時間を過ごしていた。
 
 この後が、本日のメインイベントとなる。
 
 私たちの部では、全国フェスティバルの前に、全員「一人弾き」をすることになっている。他の部員が見守る中で、本番の曲を演奏するのだ。そして、3年生は、その演奏を聴き、気付いたことや改善すべき点、そして全国フェスティバルへのメッセージなどを書いた手紙を1,2年生全員に渡す。
 当然、大勢の前で、一人で弾くというのはかなり緊張する。
 あがりやすい私の場合は、なおさらである。
 これには、本番のステージでの緊張はもっとすごいものなのだから、事前に慣れてもらおう、という意味合いが、少なくとも1年生にはある。そして実際、この経験は本番でも大いに役立つことになる。
 さて、1,2年生は、この時もらった手紙への返事、そして、先輩や部活への思いをつづった手紙を書き、本番の前日に手渡すことになっている。
 その「本番の前日」というのが、言うまでもなくこの日だ。
 
 後輩から思いの詰まった手紙をもらうというだけで、涙にくれる3年生も多い。
 いわば、感動の瞬間である。
 私も体験したことではあるが、本当に胸がいっぱいとなり、言いたいことも満足に言えない。せいぜい、「ありがとう。明日は頑張ろう」といった言葉しか思い浮かばないのだ。
 その後自室に戻り、手紙を読んでさらなる感動と涙とを味わうことになる。
 私は、自分が3年生となって手紙をもらっている光景を想像しつつ、先輩達を見つめていた。
 

午後9時

 ホテルのロビーで、全体では最後となる練習をし、その後ミーティングに移る。
 このミーティングこそが、この年の、そしてそれからの結束を強める、最大の役割を果たしただろう、と今になって私は思う。
 
 実を言うと、この時点では、私の中にも、そして先輩達の中にも、まだ釈然としないものが残っていた。
 何故、中止なのか?
 何故、来ている学校だけでも大会をしないのか?
 などと。
 そして、N先生はそういう私たちの心を敏感に、そして完全に読んでいた。
 そのうえで、こう言われた。
「今まで、先生達は『優秀賞を取ろう』と何度も言ってきた。それは目標を設定することで、より練習に取り組んでもらおう、と思ったからや。だからといって、大会が中止になって優秀賞が連発されとうからと言うて、お前らは、それでもうやる気をなくしてまうんか? 『優秀賞』にふさわしい演奏をしたと認めてもらいたいんであって、『優秀賞』という名前が、看板が欲しいんとはちゃうやろ。3年生にとっては、これが最後の全国や。それが中止になって悔しいのはよう分かる。先生も悔しい。けど、ここまで来たんや。最高の演奏したろうやないか。不平や不満がある状態で演奏しても、絶対ええ結果は出ん。その辺をもう1回考えてみぃ」
 
 これも、原文のまま書き記せているわけではない。
 だが、大意は捉えられているはずだ。
 この説教とも言える言葉に、私たちは感銘を受けた。
 心が入れ替わった、といってもいい。
 何がなんでも、明日の演奏に全てをかける。
 全体に、一種、異常とも言える連帯感が生まれていた。
 窮地に立たされたからこその一体感だと言えるだろう。
 
 そしてこのミーティング後、私たちの雰囲気は、確かに一変した。
 


1997年7月27日(日)―第27回全国高校ギターマンドリンフェスティバル2日目―

午前6時

 前日はなかなか寝付けなかったように思う。
 何はともあれ、定刻に遅れないように起き、昼頃にあるであろう、私たちの演奏に備えた。
 朝食を食べ、楽器を運び……といったくだりは、この文章においてはさしたる意味は持っていない。
 一つ記しておくならば、皮肉にも、この日天候は回復していた。もし前日のミーティングがなければ、ここで不満が形となって現れていたかもしれない。しかし、もう関係ない。
 目標はただ一つ。
 満足のいく演奏を、最高のトレピックプレリュードを奏でること。
 それだけだ。
 

時刻記さず

 何度にもわたる入念な調弦をすませ、私たちは舞台袖に立っていた。
 あまりの緊張に、地に足がついていないかのような錯覚を覚える。
「大丈夫やから」
 ギターの先輩がかけてくれたこの言葉が、その時の私には何よりの支えになった。
 先輩達に迷惑のかからないようにしよう。
 できれば、先輩達の力になれるような演奏をしよう。
 
 弦に触れぬよう注意しながらも、私はギターのネックを握りしめていた。
 

同刻

 遂に本番。
 前の学校が講評を受けているなか、私たちは各自の椅子に座り、譜面を置いたり、足台の高さを調節したりしていた。
 
 やれる限りやってみよう。
 
 そう思い深呼吸したとき、指揮者の先輩と目があった。
 緊張しきっていた私には、その先輩が女神のように思えた。
 
 前の学校が舞台から下がり、私たちの紹介のアナウンスがされる。
『藤掛廣幸作曲 トレピックプレリュード』
 よし、と私は小さく頷いた。
 さぁ、行こう。
 

 指揮者の手が上がる。
 それに呼応して、皆の手が動く。
 フォルテシモ。
 息は合っている。その調子だ。
 
 ギターソロに入る。
 パートリーダーがメロディを奏で、他のギターはアルベジオで伴奏を受け持つ。
 ギター弾きとして、最も好きな部分だ。
 
 この後、私の記憶は突然途絶える。
 次に記憶があるのは13番のアレグロモデラートのところ。
 マンドリン弾きとなった現在は、先に書いたギターソロと並んで好きだ。
 
 そして、気付けば最後の部分になっていた。
 今まで生きてきた中で、最も速い8分間だった。
 
 何が何やら分からないまま曲は終わり、講評を受ける。
 この時は何を言われているのか全く頭に入らず、後でビデオを見て、やっと言われていることを把握した。
 それほどまでに、ぼうっとしていた。
 
「ただいまの演奏は優秀賞に値します」
 優秀賞を取ったとき流れる『歓喜の歌』はない。
 その事実が、改めて「発表研修会」であることを思い知らせる。
 だが、そんなことはどうでもよかった。
 私たちは、満足のいく演奏をしたのだから。
 
 今、「満足のいく演奏をした」と書いたが、実際に満足できていたかは分からない。
 弾いていた記憶すらないのだから、仕様がないといえばそれまでだが。
 
 ただ、嬉しかった。
 涙が出た。
 
 嬉しくて泣けたのは、これが初めてだった。
 
 
 ギターマンドリン奏者としての私は、まさにこの日生まれたのだと思う。
 


 藤掛先生のhpから購入した『トレピック』のCDを聴きつつ、3年前の全国フェスティバルについて、私なりの回想録を記してみた。
 台風で中止という事件とその後の展開は、私にとって鮮明な印象として残っていたはずなのだが、細部などで、記憶が曖昧になっているところも多く、直後に記録をつけていなかったことが悔やまれてならない。
 
 さて、この第27回大会での一連の出来事は、前述したように、あまりにも印象的な出来事だった。以後の私のギターマンドリン生活の基礎になったと言っていい。この時初めて、私は自らの居場所を見いだした。
 
 その、いわば私の原点の記録とも言うべき文章の一番最後として、私はあえて、自分とは全く関係のない情景を挙げたい。関係がない、というだけではなく、私はこのことを直接見てはいない。後日、N先生より聞いた話だ。
 
 前に書いたと思うが、N先生は全国フェスティバルで役員をされているらしい。発表研修会終了後、舞台袖だか控え室だかにいた先生の元に、ある学校の生徒がやってきた。
 その生徒は、第27回大会のポスターが残っていないか、と尋ねたそうだ。
 先生はその場にあったポスターを渡し、何に使うのか、と訊いた。
 すると、こう答えたという。

「3年生の先輩達は、今年何も賞をもらえませんでした。ですから、せめて私たちからでも贈れるものはないか、と。それで、このポスターを賞状の代わりに渡そう、と考えたんです」
 N先生曰く、「返す言葉がなかった」と。
 
 小さなことかもしれない。
 だが、もらった先輩は文字通り涙を流して喜んだのではないだろうか。
 これから先、こういう出来事に出会うことなどまずないだろうが、この生徒の想いを見習い、大切にしていきたい。

 心の底から、そう思う。
 


筆者注
 
 この文章は、事実を元に、筆者の記憶を唯一無二の参考として再構成したものです。会話文を始め細部では事実との食い違いがあるかもしれません。その点をご了承ください。


引用ここまで。 

初出:藤掛廣幸ファンのページ 2000年7月23日掲載
投稿者:Rhythm


 

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