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私がやっている「日常撮影」とはアートベース社会学なのかも知れない。
最初に記しておきますが、今回の記事は、私と同じく「日常写真」を撮影してるファミリー系フォトグラファーの方と、我が子が発達障害やグレーだけれど、「日常写真」をプロに依頼してみたいと思う方に向けたものです。
記事のタイトルが、読んでも面白いかしら?という感じがしますね。
前回の記事でも、大学の授業で現在受講している「社会学」について書いていますが、ちょっとですね、この授業が私にささりすぎておりまして、受講回を重ねるごとにブワっと何かが溢れてきてしまうのですよね。で、書かずにいられなくなった。
岡原正幸先生という、すでに慶應の現役は引退している教授の授業なのですが、岡原先生の社会学は、一般的に知られている社会学より新しいものになります。新しいというか、岡原先生が社会学を突き詰めて行き着いた場所、学問という感じがします。
ほんっとーに簡単に説明します。
アカデミックな世界では通常、書き手の感情や気持ちを書くのはタブーというか、まあやらないことになっております。
でも、人と人とが関わる社会学が、インタビューをする人の内部に触れる様な行為をするのに、それをする社会学者はそこから退いている様に思えること、それはいいのだろうか?(社会学者は自分をみせない)と。
そのような問いから、学術的な論文などでは表現できない(ゆるされない)、そこにある社会学者自身の感情さえも含めたものを、「アート」として表現する学問、
それが、アートベース社会学である!
こんな感じでしょうか。
私が受講してる講義も40分前後の授業が27回もあり、その分量のプロの講義を、私が要約しようってんだから、多少ズレていてもお許しください。
岡原先生が目指すところは、「このような社会学でもって、人と人とが関わりエンパワメントしていく、より良く生きることができるようにしていく」というところだと理解しました。
なんというか、岡原先生のこの授業は、ここ最近の人生で一番の衝撃的な出会いな気がします。私がこれまで個人的にしてきた感情的な行為や、これから人生をかけて考えたいと思っていること、つまり私そのものを、この授業に説明?具現化?学問化?された感じがします。
岡原先生は、著書も沢山ありますので、興味のある方は本を読んでみてください。
1.はじめに
ここは、別に読み飛ばしてもいいです(笑)
私が書きたいことに対して必要な、私が学んだ前提知識をザッと書きます。
社会学は近代社会と密接な関係にあります。
近代社会以前は、「身分」というようなものにとらわれており自由が少ない時代でした。人々のコミュニティというようなものもそこから基本は出ません。
そこから近代社会になると、突然、「個人」とか「主体」とかが注目されるようになります。前近代のとらわれたコミュニティが解体されたあとに、人にはどのようなコミュニティが生まれるのか、そこから社会学ははじまっているというか、前近代を批判するカタチで生まれているようです。(そして、それはマイノリティや弱者をみる傾向が強い)
今の私は「女性」でも参政権もあるし、おそらく先祖をたどれば平凡な農民だろうけど、先祖が貴族の人とも結婚できるし、そのように近代社会は自由です。
しかし、近代社会を迎えた直後やしばらくは、そのような批判で説明できていたものが、そこからだいぶ進んだ現代においては「個人」や「主体」ということについて社会学は何も言ってくれてはいないし、実はそれらを押し殺してきたのだ。
と、まあ私が学んだことを言葉にするとこの様な感じです。(先生の言ったことや板書を丸写ししているものではないです)
ちょっと分かりにくいと思うので、具体的な事例を紹介します。
とある多動(ADHD)のお子さんをもつお母さんが、その子と一緒にとある商店街を歩いていました。
お母さんは普段から、すぐどこかに行ってしまったり様々なものに触れて壊してしまう我が子を制しながら商店街を歩きます。
ですが、ある時、お母さんが目を離した隙にその子がとある薬屋さんに入ってしまって商品の瓶を割ってしまいました。
お母さんは慌てて謝りますが、薬屋さんの店主は怒ることなく、その子と話を始めたそうです。
そこで、店主とちゃんと会話する息子をみたお母さんは衝撃を受けます。我が子がこのように他人とコミュケーションを取れることを知り、その場面を見たからです。
普段は、人に迷惑をかけるからと、そのような場面にいく前にお母さんが制限をかけていました。
講義では、この様な感じの事例を紹介してくれましたが、私が理解したのは、「迷惑」というワードでもって、生まれ得るはずの人と人とのコミュニケーション、そこからさらに生まれるエンパワメントを、お母さんがではなく、社会が、制限しているのが現代なのだと。
で、岡原先生の社会学は、このようなものに注目し、とり上げようとしている学問なのだと理解しました。(間違ってたらすんまそん)
2.私がやっている「日常撮影」とは。
最初に私の仕事のひとつである「日常撮影」について簡単に説明します。
私は家族や子どもを撮影するフォトグラファーで、ご自宅や七五三の神社など出張スタイルで仕事をしています。
私が独立したのは2013年で、それ以前から色々なジャンルの撮影の仕事をしていましたが、独立して結婚・出産してからはほぼファミリー撮影のみです。独立当初から、お宮参りの撮影でもまずご自宅に伺って日常風景を撮影する、七五三の撮影でもまずご自宅に伺って支度風景からを撮影するということをしており、授乳やオムツ変えや離乳食など日常の景色を撮影する事を特に意識せずに、当たり前のようにしてきました。
それは、私自身が、我が子の写真に「映え」のようなものを全く求めないタイプの母親であり、「普通がよくない?」と思っていた、つまり、
汚ったない部屋の中で私の化粧ポーチをひっくりかえしたりして、鏡の中の自分を覗き込んでいる赤ちゃんである息子
このような、本当に普通の、「日常」の風景こそが愛しいのだと思っていたからです。
一面のコスモス畑ではなくて、汚ったない部屋の中に落ちてる、トッキュウジャーのお面とか、トミカとか、ロンパースとか、そいうものが将来の私に、この時の感覚を思い出させてくれるだろうと思ったからです。
そんな私のホームページはこちら。
3.私がやっている「日常撮影」とはアートベース社会学なのかも知れない。
自分で言っちゃうのもダサいですが、「日常撮影」をするファミリーフォトグラファーの中では私はちょっとさきがけ的だと思います。
日常撮影なんてものは「」書きにする以前から、どの家族も日常の我が子を撮ってきたし、普通にあったものですが、プロがこの様にメニュー化して、人の日常を撮るスタイルは新しめのものです。
同じく日常撮影でさきがけ的なフォトグラファーのミニちゃんと一緒に「日常撮影」の講座の講師をやらせてもろたりもします。
で、今ではすんばらしい日常撮影フォトグラファーは沢山おりまして、まあまあ浸透してきたかなと。そして、ここで言いたいことはこれです。
日常撮影というものは型がないので、フォトグラファーによって撮り方がかなり異なるということです。
また、撮り方に正解が、特にないということです。
私がはじめた頃は、私や、上記のミニちゃんが日常撮影の「正解」のように思われてしまう節があったかもしれませんが、そういう時代は終わりました。
例えば、七五三撮影をするフォトフラファーがダンマリしていて、全然目線も笑顔も誘導してくれなかったら、「君なんでこの仕事してんの?漫喫ででもバイトしたら?」と思いますよね。
でも、日常撮影は、フォトグラファーが黒子に徹しても撮影ができます。
そのように、フォトグラファー自身が過剰なコミュニケーションを排除することでしか撮れない日常写真もあるかと思います。
で、私は、めっちゃくちゃコミュニケーションするタイプです。
黒子型かコミュニケーション型かの二極ではなく、その間の様々なレイヤーがあり、それがフォトグラファーの個性にもなってきますが、私はおそらくコミュニケーション型の右にめちゃくちゃ寄ってるタイプだと思います。
それは、どのお子さんも可愛くて仕方ないという気持ちが溢れて、声に出てきてしまうというのが大きいですが、本当の本質は、私が、
写真あってのコミュニケーションではなく、コミュニケーションあっての写真
と、この仕事をとらえているからだと思います。
おい、保育士じゃないんだから写真しろよと思うかもしれませんが、もちろん写真は頑張ってます。
しかし私は、ご家族と、お子さんとコミュニケーションが取れないのならフォトグラファーをやる意味を見出せません。
私は、私が今やってるコミュニケーションの度合いにより、「撮れなくなっている」部分もあるだろうことは理解しています。
外部の人間であるフォトグラファーが入る時点で、厳密な「日常」じゃないじゃんという意見もあるかと思いますが、そこは、私はアーティストではないし、「サービス」だものと開き直っているのでアレなのですが、「サービス」として私たちが撮る「日常写真」が何なのかは、私的には答えが出ていますのでいつかその記事も書きますね。(この記事は有料にするかも)
何が言いたいかというと、
その「撮れなくなっている」部分を逃してでも、「私」とその「家族」「お子さん」でしかなし得なかったコミュニケーションで生まれた「日常写真」でいい
と私が思っており、それは岡原先生のいう社会学と同じなのではないかと思ったということです。
4.発達障害のあるお子さんの日常撮影
「日常撮影」とは、お客様の日常に少し入り込む行為です。
私は、「日常撮影」をはじめた当初は、このサービスを売り込むために「感情」や「共感」を使いました。
売り込むためというとビジネスライクに聞こえますが、私もお客様と同じ年の頃の息子たちを育てていましたし、心から湧き上がってくる感情を文章にして写真にのせました。だから本心なのだけど、そうすることでお客様の深いところに触れ、言葉ではない何かが、納品した写真に「意味」として乗っかってくるというようなことがあります。
お客様が、私が納品した写真をみて、何かの「意味」みたいなものや、「元気になる」とか「肯定してもらえた」のような、それこそエンパワメントが生まれたら、私の仕事は成功なのかもしれない。
これもとても、アートベース社会学に似ていると思います。
そしてここで、1.はじめにで触れた多動のお子様の話に戻ります。
私のお客様にも発達障害の方はおられます。お子さんだけでなく、親御さんがそうという方もいるし、「我が子はグレーなのでご迷惑をおかけするかもしれません」と先にメールで伝えてくれる方もいるし、特に伝えられてなくてもそうかな?と私が感じるお子さんもいます。
私には専門的な知識がある訳ではないので、感覚なのですが、だからこそ、発達障害というものではなく、「コミュニケーションの個性」という風に私は捉えています。
具体的に説明すると、お子さんが撮影中に何か怒った場合、それが2歳さん3歳さんでも私に対して怒りをぶつけてくる子はほとんどいません。でも、個性のある子は私に固めのおもちゃを投げてくるなどがあります。(手加減したり投げようとするところで留めたりしてくれるのだけど)
例えば、私が可愛さ余ってお客様のお子さんに「おしりちゃん♡」とか呼んで、お子様が怒るとかは私のコミュニケーションの完全アウトなのですが(私は次男をおしりちゃん♡とよく呼んでいる)、そうではなく、私ともママともどちらともがなんとなく「そろそろおもちゃやめてご飯にしない?」と伝えた時などに、まだ遊びたい気持ちが爆発してモノを投げたりしてしまうなどのことがあったとします。
その時に私が思うのは、「全然迷惑だと思わないでください」ということです。
これは七五三撮影に関するブログなどでも昔から言ってきたことなのですが、改めて思ったのは、それも含めて私が行為する「日常写真」になるからそのままでいいのだということです。
例え、我が子がADHDなどと診断されていて、撮影中にそれに伴う行動が出たとしても、1.はじめに、で触れた多動のお子様の話の様に、私とのコミュケーションを体験してもらえれば。
と、そう思ったのです。
私に対して「ごめんなさい」と親御さんが強く思う必要がなくて、私の撮影のコミュニケーションの中で生まれるその後の展開を含めてのその写真に意味があると思うのです。でなきゃ、私がコミュニケーション多めフォトグラファーであることのいい面がなくなってしまうかも。
勿論、親御さんは黙っててもらって大丈夫ですってことではなく、お子様が怒って暴れたとして、そこに私も含めたコミュニケーションとして一緒に怒ってるお子様を愛でたのち(私は諸々大丈夫なら勿論写真に残す)、気持ちを切り替えさせればいいと。つまり言いたいことは、
社会にある「迷惑」という制限の中で、もしママがその子の手を強く握ったまま商店街を足早に通過していたら、薬屋さんでのコミュケーションとその場面は訪れなかった。でも、私はその薬屋さんのようでありたい。私の撮影においては手を離しておいていいと思います。そこで生まれるコミュニケーションを撮れないのなら、私の仕事の意味は結構薄れてしまうだろうから。
ということです。
別にこれは発達障害のあるお子さんに限った話ではありませんが、もし、撮影してもらうことに興味があるのに、「うちの子は多動だからな、無理かな」と思ってやめてしまうなら、それが「迷惑」に起因するものなら、そのやめてしまうことを取っ払ってみてください。
特に、「日常撮影」は撮りやすいと思います。
そして勿論私だけじゃないないと思います。こう思っているコミュニケーション好き日常撮影フォトグラファーさんはいっぱいいると思う。
「日常撮影」において、私たち撮り手の主観をどう扱うかという問題?もあると思うのですが、私は撮影を「コミュニケーション」と捉えているので、私は主観を排除しようと努力していないと言えます。
勿論、主観を極力排除しようというタイプのフォトグラファーさんもいると思いますし、客観的な感じのする写真を私はリスペクトしています。
また、客観的だったり、構図がめっちゃかっこいい写真を撮るからって、そのフォトグラファーさんの感情やコミュニケーションが薄いって訳でもないでしょう。
ただ、私の撮影は、アートベース社会学の様に、相互作用として完成させたい。
私は慶應の「文学」や「社会学」を学んだことによって、かなり自分の仕事の本質に到達しつつあると思う。(だいぶヤバ味がありますね)
いや、まだまだ浅いでしょうね。
こうして中年をこじらせながら、私はまだまだこの仕事を続けたいと思います。