推しが武道館いってくれたら死ぬ11巻最速雑感
以下は全て筆者の個人的な感想であり、独自の解釈です。
単行本で一気に見ると、連載で見るときよりも流れはスムーズ。全体的な空気は明るく、まさしく新生ちゃむの新たなスタートという印象。そして絵が上手すぎる……可愛い……全員が……
しかしその裏で、あくまでこの巻が「れお卒業編」の続きであり「れお(とくまささん)を過去にしていく話」であるという、連載中からの解釈は変わらない。
と、いうところで単行本によって新たに与えられた情報、カバー裏。
ちゃむたちのLINE。そう来たか……そう来たか……!
内容はもう本当にこれだけで一冊単行本出してほしいくらいだが、当然そこに秘められた意味合いは深長である。
この巻、回想とコメント(と幻覚)以外では、れおが一切姿を見せない。
元々が視点や時間軸が頻繁に入れ替わりながら進行する漫画。これまでの傾向であれば、スマートフォンを手にちゃむのyoutubeを見て、コメントしているれおの姿の一コマくらいあってもよかりそうなもの。
だが、それは無い。一切ない。
ちゃむたちは「過去のれお」に導かれているが、「今のれお」は作中で一切描写されない。
あの動画のコメント以外には。
あの、どのような状況で、どんな心境で書かれているかもわからぬ、無機質な電子の文字以外には。
今のれおが何をしているのか、読者は一切うかがい知ることが出来ない。それはおそらくちゃむ達も。
これは明らかに意図的に設計されている。
11巻以降、全てのれお推し、ひいては推し武道ファン全員に常に、ひたひたと影を落とす呪い。
「だがそこにれおはいない」
11巻の内容はそれに尽きる。あるいは作品外の展開においてもだ。
そして単行本で新たに追加されたカバー裏。
ちゃむじゃむのグループLINE。そのタイトルはつい先日までは(7)であったはず。
しかし今やそれは(6)
もちろん10巻のラストでも示されたことである。
つまり、そこにれおはいないのだ。
「今日は仕事じゃない」プライベートで六人で遊ぶちゃむたち。なんと微笑ましい。この日の様子だけで一冊単行本出してほしいくらいだ。
だが、そこにれおはいない。
「アイドルのわたし」が終わっても、終わりたくない「アイドルじゃないわたし」になったはずの。
読者には内緒にこっそりと、本名すらちゃむたちに教えた、あの人は。
いない。
明るく、可愛く、アイドルコメディで、「推し武道的」で。そんな印象の中に、あるいは裏に、静かに確かに落ちる冷ややかな影。
本編中のみならずカバー裏の描き下ろしですら、あくまで密やかに軽やかにそれを描く。たった1P分の内容で、あまりにも雄弁に物語り、読者に迫る。この単行本が持つ意味合いを呈示する。
11巻、この単行本一冊自体が、多面的な意味を持つ、完成された芸術品である。