死者の溶解
昨年の夏に、父が亡くなった。そして母は独り暮らしとなった。父が亡くなったばかりのころは、母はわたしに電話をしてくるにつけ泣いていた。
だがあるとき、母が言うのだ。夜中に寝ていると、父が歩き回っている気配がすると。引き出しをごそごそやっているようだと。たしかに、父は引き出しに通帳などの書類をしまっており、生前はよくそこを確認していた。ことさらに自室といった空間を持とうとしなかった父にとって、あの引き出しが、いわば自室の役割を果たしていたのかもしれない。
また、あるときには、眠っている母のひたいを、ちょんちょんとつつく父の気配がしたという。それで母は起きたのだが、起きて父がいないから寂しいというよりはむしろ、その日一日とても満たされて、幸せであったという。いかにも父がしそうな、いたずらっぽいつつき方であったと、電話の向こうで母は微笑んでいた。
母によると、今も夜中には誰かが歩き回っているらしい。ただし、もうそれが誰なのかは分からないという。しかも一人ではなく、数人の人々が歩いているそうだ。だからまったく寂しくないという。
だんだんと父の輪郭が溶解し、「ひと」という存在に変化していっているのかもしれない。あるいは、「ひと」が複数人歩き回っているのは、父だけでなく、祖父や祖母、つまり母の両親もそこにいるのかもしれない。
そして、これは予感だが、やがて家の中から彼らの気配は姿を消すだろう。そのときはもう、母が父の死を受容しきったときである。
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