墓場には持って行けない
以前に、大杉連さんの遺作となった『教誨師』という映画について、日記に書いた(「自分が充満する」)。わたしは刑務所での仕事はしていないが、同じ牧師として、映画を観て大いに揺さぶられるものがあった。そして映画を観ながら、わたしは堀川惠子氏による同名のノンフィクションを想い出していた。堀川惠子著『教誨師』では、牧師ではなく浄土真宗の僧侶・渡邉普相について書かれている。
故・渡邉普相は、自分の話したことを、生きている内には決して公刊しないよう堀川氏に約束させたという。そこには複雑な事情がある。もともと宗教者が誰かの相談ごとを聴く際には守秘義務が発生するものだが、こと教誨師においてはそれがとくに厳しいのである。ましてや、彼が相手にしていたのは死刑囚である(教誨活動には軽犯罪で服役中の者に対するものもある)。そこで何を話したのか、外部には一切漏らしてはならない。マスコミだけでなく、家族にさえ話してはならない。さらに、教誨師は死刑執行にも立ち会うことがある。そして、執行に立ち会ったこともまた、誰にも話してはならないのである。
大杉連主演のほうの『教誨師』の最終場面、牧師が妻から「最近お酒の量が増えてるんだから」と心配される場面がある。気をつけないと見過ごすほどの、ちょっとした場面である。しかし妻の一言は重いと、わたしは感じた。
現実の教誨師であった僧侶・渡邉普相はその晩年、重度のアルコール依存症に苦しむことになる。家族から飲酒を禁じられても、仏像の下にウイスキーを隠し持つほどになってしまう。そして彼は入院し、治療を受けることになる。そこで彼は「先生」ではなくただの一患者として、自分の限界に向き合うのである。
わたしも閉鎖病棟に入ったとき、牧師「先生」ではなく一患者になった体験があるので、このあたりの心境の変化は分かる。わたしについて言えば、自分を隠して「先生」として振る舞っていたのが、退院後は裸になって、ただの弱い個人として他人と向きあえるようになった。渡邉普相も退院後は死刑囚と笑顔で、自らのアルコール依存症について語りあえるようになったという。
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