放っておいてほしい人

彼女は安楽死を選んだ』という番組を観た。小島ミナさんという多系統萎縮症に苦しむ人が、スイスの安楽死団体ライフサークルに申し込み、最終的に安楽死を遂げる。番組ではその死の様子まで放送した。正直、あまりにも「幸福な」自殺に対して、宗教者としてのわたしは言葉を失った(ライフサークルでの安楽死は、当事者が自ら点滴のスイッチを押す「自殺」を医師がサポートする。従って、分類として自殺幇助である。他方ベルギーやオランダでは、医師が薬物を投与する積極的安楽死が採用されている。それらの国であっても、当事者が希望すれば自殺幇助の形式もできるという。これらの詳細については宮下洋一『安楽死を遂げるまで』『安楽死を遂げた日本人』参照)。

聖書にはさまざまな病の苦しみを持った人が登場する。12年間出血の止まらない女性が、イエスに癒しを求めて近づく。あるいは盲目の男性が「見えるようになりたいのです」とイエスに叫ぶ。重い皮膚病の人がイエスに癒しを求める。悪霊にとり憑かれ、奇行をする人。こんにちでいうところの精神的な障害あるいは疾患に相当する苦しみを表しているのか。このような病の苦しみにある人は、当時の宗教社会にあっては、ある者は汚れの対象として忌避され、ある者はかろうじて物乞いで生きながらえている。いずれにしても疎外された人々である。

聖書に登場するこれら病める人には総じて「治りたい」、すなわち生きたいという渇望がある。「死にたい」という前提がない。はっきり自殺が示唆されているのは、福音書ではユダくらいだろうか。どういう事情があったのか分からないが、おそらくはイエスを当局へと引き渡してしまったことを後悔しての自死であると思われる。また、旧約聖書(ヘブライ語聖書)にも自害する記述がいくつかあるが、戦場における敗将の自刃という文脈であり、こんにちの自殺とは意味合いが違うように思われる。

「生きたい」と渇望する人々を生かすべく駆け回っていたイエスは、こんにちのような事態を想定していただろうか。延命治療を拒否する人の苦しみを。いや、そもそも「延命治療」などという概念を。イエスの周囲に群がった人々は「治りたい」「癒されたい」、すなわち「生き延びたい」という、切実な苦しみに喘いでいた。癒された結果、当時の汚れ概念から解放され孤独から解き放たれるわけだが、こうした疎外からの回復も、あくまで「治りたい」という生への強い意志あっての結果である。というのも、もしも「このまま死んだ方がましだ」と思っていたなら、その人はイエスに近寄ることはなかったはずだから。たしかに、悪霊にとりつかれた人がイエスに向かって「わたしにかまわないでくれ」と言う場面はある。より直訳すれば「わたしとあなたとの間に何があるのか(なんの関係もないだろうが)」ということである。しかし基本は、生き延びたい人々との出会いだっただろう。

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