暗くきよらかなる空間

人間はあまのじゃくなものだ。教会ひとつとっても、広々とした清潔感あふれる礼拝堂を求める人ばかりとは限らない。わたしが働いている教会は民家ほどの広さしかない。たしかに床もトイレも掃除はしているし、椅子カバーもしょっちゅう洗濯はしている。けれども雰囲気としての、見るからにパリッとした清潔な感じはない。ところが大きな教会ではなく、うちのような教会にわざわざ訪ねてくる人もいる。それも何人もいるのである。そういう場所にむしろ安心する人もいるのだ。

ましてやお店となると、秘密基地めいた鬱蒼とした空気を探し求める人が後を絶たない。わたしは若い頃、友人がDJをしていた縁で、しょっちゅうクラブに出かけていた。たいして広くもなく、壁も音響機器もすべて真っ黒、それがタバコの煙で白んでいる、そんな空間の居心地のよさ。なにより照明が暗いので自分の顔を見られないで済むし、他人の顔色を窺う必要もない。イベント自体の楽しさだけではなく、クラブという空間そのものが安らぎであった。

國分功一郎という人が『暇と退屈の倫理学』のなかで書いていたのだが、それによると、人間がごみ捨てなどの片づけをするようになったのは、人類の長い進化のなかではごく最近のことらしい。というのも人間は狩猟採集という移動生活をしていたので、食べかすや糞尿は放置して、また移動すればよかったのである。移動を重ねているうちにもとの場所へと帰って来る頃には、それらのごみは風化してしまっているというわけだ。人間は定住することによって初めて、ごみや整理整頓の問題に直面するようになったのだという。そしてお墓の歴史も始まった。遺体をそっと置いていく移動生活ではなく、村の一角に埋葬する歴史の始まりである。國分氏によれば、だから片付けの苦手な人たちが一定数いるのは当然のことだという。なにしろ人類史のつい最近まで、人間は片付けなどする習慣がなかったのだから。

國分氏の言うとおりだとすると、きれいに片付けられ広々とした空間では落ち着かないという人たちが一定数いたとしても不思議ではなくなる。狭くてごちゃついたところに狩人よろしく身を潜めて過ごす。いささか比喩的ではあるが、そういう身の置き方に落ち着きや安らぎを感じる人たちもいるということである。わたしの通っていたクラブは地下へと降りる階段も洞穴のようであり、トイレから何からつねに狭かった。しかし狭「苦しい」とは感じなかった。わたしもそうした人間の一人なのかもしれない。

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