信仰にまつわる覚え書き

わたしはこれまで、衰退しゆく一方の教会をどうやって盛り上げていくか、そのことばかり考えてきました。ちょうど、池口龍法師が、フリースタイルな僧侶たちという運動で、寺興しに懸命に取り組んできたことに通じます。わたしは無職の頃、彼のお寺に行ったこともあります。それは何かのイベントで、妻といっしょに行きました。さまざまな宗派のお坊さんや、一般の方も参加していました。一人ひとり、お寺の備品である木魚をお借りして、みんなでいっしょに「なんまいだー(南無阿弥陀仏)」と唱えながら、ひたすら木魚を叩くということを30分ほどさせていただいた記憶があります。たまに全員の木魚の「ぽくっ」がぴったり一致する瞬間があり、そのときは鳥肌が立つ快感が生じました。あれはあれで神秘体験というか、宗教的な体験をさせていただいたと、今では感謝しております。

しかし最近の池口師の連載を拝読するに、彼は家族を含め、さまざまなことを犠牲にしながら、寺興しに苦闘していたようです。彼の連載についてはさまざまなご意見がおありかと思いますが、わたしは読んでいて涙ぐみました。分かる、分かるぞあんた。そうやって失敗したんだな...わたしは彼を嗤えませんでした。

わたしは教会の門戸を広げよう、ハードルを下げよう、そう思いながら、伝道者生活をしてまいりました。どこの教会に赴任したときでもホームページを作り、信徒ではない方に気軽に連絡してもらえるようにしました。初任地や前任地では特別伝道集会などのビラを作っては新聞に折り込み広告として入れてもらう以外にも、自分で街を歩き回ってポスティングしました。特別な集会がないときにも自作のフライヤーを作っては、折にふれて街の家々に投函してまわりました。

幼稚園の園児たちに聖書の話をするのもわたしの大切な努めでしたが、わたしの狙いはむしろ保護者にありました。保護者にこそ、教会の魅力を知っていただきたい。福音にふれて、子育ての悩みや苦しみを教会で分かちあってもらい、信仰に入っていただきたい。そう願いながら、「またよかったら教会に来てくださいね~」と、子どものお迎えに来た保護者に、事あるごとにお声がけさせていただきました。

しかし、やればやるほど、疲れてゆきました。地方都市では神社仏閣の伝統的なお祭り文化が根強く残っており、そういうなかで、理屈っぽいプロテスタント教会に魅力を感じてくださる方はほとんどおられませんでした。日曜日、教会に子どもを連れてこられる方も、子どもを教会に預けたらお昼過ぎに迎えに来るまで、ご自身は家に帰ってしまいます。ようは、日曜日の教会は、ただで子どもを預かってくれる場所だという認識です。信仰には興味はまったくないけれど、ただで子どもを預かってくれるから助かる。

もちろん、それはそれで、社会のインフラとして有意義なことです。教会が子育ての役に立っている。まったく喜びがなかったわけではありません。しかし池口龍法さんが、なぜ、お墓などの収益に満足せずに、仏法を伝えようとムキになったのか。わたしにはその力みが、痛いほど分かります。わたしの場合なら保育、池口さんの場合ならお葬式やお墓、そういう仕方で社会の役には立っている。だけど、やっぱり信仰そのものを伝えたい、伝えるのが宗教者の責務ではないか。そういう焦りが、彼にもあったのかもしれません。わたしにはありました。そうやってわたしは疲弊してゆきました。

東京に来たら、きっと地方とは異なるだろう。東京には地方のような伝統的お祭り文化も少なく、地域の結びつきも弱く、根無し草の人も多い。だったら、まじめにキリスト教を伝えれば、それも、ハードルを下げ、幅広くやれば、教会には人があふれるだろう。わたしはそう期待しました。そこでわたしがとった手段は、「よろず悩み相談お引き受けします」的なことでした。悩みがある人、いらっしゃい。わたしが傾聴いたします───そこから、チャンスがあれば、福音をお伝えしよう。日曜日の礼拝に来る人もたくさん現れるだろう。そういう目論見がありました。

イベントバーエデンというお店の常連になり、たくさんのお客さんと知りあいにもなりました。わたしはそのお店や、その他あらゆる場面で、たぶん何百枚もの名刺を配ったと思います。「ぜひ、うちの教会にお越しくださいね」。選挙で言うところのドブ板というやつです。とにかく交友関係を広げ、頭を下げ続け、教会に来てもらおう。来てもらいさえすれば、あとはなんとかなる。その一心でした。

礼拝説教も、罪という暗いイメージのある言葉や、奇跡や復活などの自然科学に反することに真正面から向きあう話はできるだけ避け、「信仰にはこういうメリットがある」「信じていれば、こんなおだやかな心境になれる」というような、自己啓発的な話をするよう努めました。話は簡潔に、倫理的かつほっこりと癒されるテーマを。そうやって自分の礼拝説教を‟洗練”させていきました。

ですが、やはり信仰は、そのような薄っぺらいまやかしでは伝えられないことに、51歳にもなって、ようやく気づくことができたように思います。神には関心がないけれど、悩みは(無料で)聴いてほしいという人は、やはり教会に長くいることはできません。なぜならそういう人にとって、教会はけっきょく面白くないからです。わたしがどんなに分かりやすい聖書の話をしようが、それはしょせんコンテンツとよばれる消費物に堕したしろものであり、いずれ飽きられます。世のなかには、もっと心温まる癒しの物語があふれかえっているからです。それに、わたしがどんなに営業スマイルで好感度を装っても、なにしろ毎週お会いするのですから、いずれメッキは剝げてしまいます。わたしにも不機嫌なときや、妥協のできない、強めの主張をすることもあり、そういう出来事があると、教会を癒しの場ととらえている人のほとんどは、わたしに幻滅して去ってゆきます。

前田利鎌は禅の師匠、岡夢堂の言葉を語り伝えています。

「ここは病院じゃない。神経衰弱を治すんなら病院に行きたまえ。坐禅なんぞやると、神経衰弱は烈くなるばかりだ。」

「夢堂老漢」(前田利鎌『臨済・荘子』)

そこには、ただ禅をきわめたい者だけに門戸を開く、厳しい信仰者の姿があります。神経衰弱すなわち、わたし流に言えば「死にたい」と悩み相談に来る人に、どう向きあうのか。彼の答えはじつにシンプルです。ですが、この夢堂先生は、同時にこんなことも利鎌青年に語るのです。

「君が提唱を聞きに来てくれないと、張り合いがないよ。休まないようにしてくれ。われわれの目的は、万卒を求むるにあらず、一将を得んとするにあるのだ。君はその一将になってくれ。君ら若い人が参禅してくれると、俺は後ろから密かに拝んでいるよ。」

前田利鎌、同書

たしかに夢堂先生は禅を究めんとする先生です。そこには孤高たらんとする、意地ともとれる態度が見え隠れします。彼は孤独に生きる人です。しかし、やっぱり同時に、彼もまた人並みの寂しさを抱えているのです。ほとんど訪れる者もいない、また、せっかく訪れていた若者も去ってしまった、そんな自分の道場に若き利鎌青年に来てもらえた。そんな夢堂先生は、心から嬉しそうです。

わたしはこの夢堂先生の姿に、涙ぐましいものを観ます。信仰の精髄を、妥協して安売りはしない。癒し系にはしない。癒し系も、疲れた人を癒すという意味ではとても大切なことです。ですが、癒し系のさまざまな商品は、それを使う人に変化を促しはしません。よくがんばりましたね。もうじゅうぶんですよ。あなたはそのままでいいんですよ。それが癒しのメッセージです。ですが夢堂先生の目指したもの、そして最近わたしが目覚めつつある教会の姿も、癒し系とは袂を分かちつつあります。すなわち、「わたしは、あなたは、神と向きあうなかで、どう変わりたいのか」、これです。

神を求めるなら、神にふさわしい自分へと変えられてゆかねばならない。だが、変えられるとはいっても、教会に来さえすれば自動的に化学変化するのではない。悩みながら、苦しみながら、それでも性懲りもなく教会というこの退屈な場所に集い、祈りに集中する。そんな華もないことを、地道に積み重ねてゆくしかない。もちろん、家の近所に教会が無い人もいる。そういう人はインターネットや書籍などを用いて信仰を求めることになるが、それでも、自分が変えられてゆく、変わってゆくことに対しては、同じように腹を括らねばならない。

このような信仰の歩みは、癒し系とはほど遠い道のりです。ところで、人は信仰をめぐって、ときには戦争さえ厭いません。それは歴史が証明しています。もちろん、信仰「だけ」が戦争の理由ではありませんが、信仰が大きな要素であることは否めません。わたしは「自分は戦争をする人々とはちがう。平和を愛する信仰者なのだから」などとは、口が裂けても言えません。たまたま今、平和な日本の恩恵にあずかっているだけのことです。もしも戦乱の時代や地域に生まれ育ち、自分の信仰が全否定される危機に陥れば、わたしも武器を手に取っていたかもしれません。信仰とは、それくらい狭く険しい側面を持つものです。多くの日本人にとって、ですから信仰とは異様なものにしか見えないことでしょう。

わたしは信仰をポップでイージーなものにしようと全力で足掻いてきました。そうやって無駄な回り道をしてきたからこそ、今さらになって到達できた想いがあります。信仰はポップでイージーなものではありえない。誰にも普遍的に理解、共感してもらえるものでもない。「宗教があるから戦争が起こるのだ」とおっしゃる方には、安んじて申し上げましょう。「戦争の苦しみがあるから、人は信仰を求めずにはいられない」と。もちろん同意してはもらえないでしょうが、それでもかまいません。普遍を目指すのではなく、針の穴を深く、深く掘り下げる。その営みを、これからのわたしは目指してまいりたい所存です。

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