原稿ではなく相手の顔
以前から教会では「聖書を読む会」という小さな集会を、毎週金曜日の夜にやっていた。しかし3月27日を休会として以降、ずっとできずにいた。今日は2か月以上ぶりに、それを再開することができた。
休会しているあいだも金曜日の定刻になれば、わたしはツイキャスで聖書の話を語り続けた。それはそれで伝道の意気込みをもって取り組んだし、自分なりに語りたい聖書のメッセージもたくさんあった。とはいえ、やはり独り語りには限界があった。
「限界があった」ということにさえ、独りで語っているそのときには気がつかなかった。今日、じっさいに来てくれた人たちを目の前にしたとき、原稿にはない言葉が滔々とあふれ出してくることに気づいた。それで初めて「独りでやることには限界があった」と自覚できたのである。
教会という言葉を表すἐκκλησίαには、もともと「集会」という意味がある。だから「さて、群衆はあれやこれやとわめき立てた。集会は混乱するだけで、大多数の者は何のために集まったのかさえ分からなかった」(使徒言行録19:32)の「集会」や、同じく39節「それ以外のことで更に要求があるなら、正式な会議で解決してもらうべきである」の「会議」もἐκκλησίαである。ようは人が集まって行われる営みである。それが転じて、今日の限定的な意味での「教会」となっていく。
時代は下って4世紀。修道士であったトゥールのマルティヌスが、アミアンで寒さに震える物乞いに出会った。マルティヌスも金を持っていなかったので、着ていたマントの半分を裂いて物乞いに与えた。すると夢の中にマントの半分だけを身にまとったキリストが現れ、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書25:40)と語った。マントはcapellaと呼ばれたので、このマントの切れ端と伝えられる聖遺物が保管された教会がいわゆる「チャペル」と呼ばれるようになり、そこで奉仕する人々は「チャプレン」と呼ばれるようになった。(フスト・ゴンサレス著、石田学訳『キリスト教史 上巻 初代教会から宗教改革の夜明けまで』新教出版社、2002年、163頁。)
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