ちがうものが見える
'ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。 悔い改めにふさわしい実を結べ。 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」 'マタイによる福音書 3:7-12 新共同訳
悔い改めること。洗礼者ヨハネが語る、福音の原点です。それがなければ、何もない。というより、その動機づけが起こらなければ、ヨハネの言葉なんぞ、ただの雑音です。では、その悔い改めとは何か。
ある辞書を調べると、悔い改めるというのは、「後になって知覚する」という意味だそうです。リアルタイムでは気がつかなかった。しかし、後になって、「ああ、こういうことだったのか」と気づいた。そういう意味になるようです。そしてそれは聖書では旧約聖書世界からの伝統的な話法として、「後悔する」とか「考えを改める」という意味あいで使われていました。つまり、単純に「後になって分かった」という事実だけを指すのではなくて、「あのとき、なんであんな風にしか考えられなかったんだろう」とか「どうしてあんなことをしてしまったんだろう」という、今となっては取り返しのつかない過ちに、今さらになって気づいてしまったという、深く落ち込んでしまう状態を指しています。
絶望するなら、いっそ開き直りましょうか。取り返しがつかないことに今さら気づいたとして、だからどうしたというのでしょう。もう取り返しがつかないのだから、どうしようもないじゃないですか。やり直しもきかないんだから...でも、そうではない。たしかに、わたし独りなら、ただ衝きあがる後悔の痛みにのたうち回るだけです。だが、取り返しがつかないと「神の前で」気づいたとき。神と一緒になら、取り返しがつくのだと洗礼者ヨハネは語っているのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」とヨハネが言うのは、そういうことです。
「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」。イエスのことです。ヨハネはイエスの到来を預言しています。ヨハネは裁きを強調して語るので、そのイエスの姿は恐ろしい。良い実を結ばない木とか、麦を取り去ったあとの殻とか、そういう、つまり悔い改めない存在はみんな火で焼き払われると。地獄の炎で焼き尽くすことができる権能をイエス・キリストは持っているんだぞとヨハネは語るのです。
ヨハネは強い危機感を持っていました。ローマ帝国に呑み込まれようとしているイスラエル。絶望し、あるいは妥協し、信仰から離れ去ろうとしている人々。今すぐ神の元に還れ、もう時間がない!そういう危機感をもって、彼はイエスのことを語る。そのキーワードは悔い改め。今まで平然とやってきたことを、後悔しながら振り返れ。当たり前と思ってきたことが、当たり前どころか神への背きであったことを思い知れ。
古代の信仰は心だけの宗教ではありません。悔い改めるとは生き方を変えること、病人や差別されている人、貧しく虐げられた人に気づけという促しでもあります。ネガティヴで暗いでしょうか。たしかに暗いです。でも、ただネガティヴなのではない。今までとはぜんぜん違う物の見方をする。今までとはぜんぜん違う世界の受け取り方をする。それは自分の現状を当たり前と思わず、神と向きあい、些細なことを神に、隣人に感謝する生き方へと変わる、第一歩なのです。お祈りします。
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