相談者と共に、神がいる
教会には、さまざまな悩みを抱えた人が相談に来る。わたしは臨床心理士でも精神科医でもないから、ただ話を聴かせてもらうだけである。そしてそれら精神医療の現場の人たちと異なるのは、「神と共に」相手と出会っているという信仰を、少なくともわたしは持っているという点である。
教会に来た相談者は、わたしに一通り話をして、場合によっては涙を流して、そしてすっきりして帰る。相談者は悩みごとについて「今、決めなくてもいいんだ」と納得できるようになる───他人からの評価は無くとも、神はご存知である。これまでの人生、じゅうぶん頑張ってきたことを。そして神の眼から見れば、まだまだこれからも先があることを。だから今、答えが出なくても大丈夫なのであり、あれかこれかの即決をする必要もないのだと────教会に立ちどまることで、相談者にはそれが実感できるらしい。
というのも相談者が話す内容のほとんどは、今すぐどうこうできない話ばかりなのである。人間関係やこれまでの人生への疑問、将来への不安など。そもそも今すぐどうこうできる話なら、教会には来ないだろう。疑問に思っている分野に詳しい人のアドバイスを求めたり、インターネットで調べたりして、自分で手を打つはずである。それらが一切できないこと、どうしようもないこと、だが、誰かには聴いて欲しいこと。それを教会に話しに来るのだ。
とはいえ「今すぐどうこうする必要はないんだよ」と、友だちに言われても納得できないこともある。いや、お前が言うなよと。お前はうまくいっているじゃないかと。親しくても言えないことがある。家族でも分ちあえないことがある。近しいからこそ語り得ないことがある。そういうときに、不謹慎な言い方ではあるが、神という概念は便利である。近しい人間関係すべてから離れ去り、それらを俯瞰するまなざしが与えられるからである。とくだん信仰者ではなくても、神がいるような気がするだけでよい。神がいたとしたら、その神から見て、今のわたしはどうであるのか?
記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。