葛藤さえできない
「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」 ルカによる福音書 11:24-26 新共同訳
「自己は統合されているか──灰の水曜日に」という記事を先日書いた。イエスを荒れ野で誘惑する、悪魔の話をめぐる話である。
悪魔は、悪魔祓いでは除去できない。これがわたしの感慨である。今までさんざん映画『悪魔祓い、聖なる儀式』に言及しておいて、エクソシストの方々にはほんとうに失礼な話だとは思うが、これがわたしの本音である。むしろ悪魔祓いで除去できるような「視覚的な」悪魔だったら、どんなによかっただろうかと思う。
「魔が差した」という。善良な人が、諸事情の複雑な絡み合いのなかで犯罪を犯す。まあ、犯罪は非日常的な例かもしれない。もっと身近なことで言えば、例えば他の誰から見ても些細なこと、とくに悪くは見えないことであっても、やってしまった当事者にとっては「なんであんなことを!」と後悔しか湧いてこない振る舞いというものがある。敗北感。誘惑に負けてしまったという思い。
人間は生きている限り、そうした敗北感から完全に逃れることはできない。何の迷いもなく生きられるのならともかく、模索しながら、辛うじて自己制御しつつ生きているのであれば、「あのときあれをしたのは失敗だった」という後悔はつきまとう。そして一時の後悔ならいいが、それをずっと引きずってしまうこともある。引きずりに引きずって、それで同じ過ちを二度と犯さないのならいい。ところがまたしても同じ失敗をしてしまい、さらに後悔する。
イエスは荒れ野で誘惑を受けた。その場合、イエスには「これは誘惑だ」という現在進行形の意識があった(はずだ)。これをもっと世俗的に解釈すれば、一人の人間のうちにおける二つの声、すなわち葛藤に敷衍することもできる。葛藤する人間は、「あれか、これか」という葛藤が今、自分のなかに起こっていることを意識できている。
しかし今まで書いてきた後悔というのは葛藤とはちがう。葛藤は現在進行形で起こるが、後悔とは文字通り、ぜんぶ後からの話である。「なぜあのときあれをしてしまったのか」という苦い想い。だが、それを行為している真っ最中には葛藤どころか何の迷いもないことさえあるのだ。例えばキレたときなど。キレて暴言や暴力行為をしてしまう、その瞬間には迷いはない。感情の爆発が理性を決壊して、怒涛のごとく溢れ出してしまうのだ。
これを聖書風に「じつは悪魔の誘惑であった、そしてわたしはそれに負けたのだ」と考えてみる。するとイエスの場合とはちがって、悪魔はそもそも、わたしに考える隙など与えないと気づかされる。わたしに葛藤させる程度の悪魔なら、そいつは未熟なのだ。なるほどイエスは大物であった。イエスはリアルタイムで誘惑に気づき、葛藤を起こした、というより葛藤さえ起こさなかった。彼は悪魔の誘惑を未然に斥けた。だがわたしのような小物中の小物に、悪魔は葛藤など起こさせはしない。わたしはその時々の気分的傾向の赴くまま自傷的な行動をとり、あとになって「あれはまずかったなぁ....」と後悔するのである。葛藤は起こらない。気づくのはいつも、つねに後だ。
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