「ありのまま」の深淵を覗き見る恐怖
イエス・キリストの生涯を思うに、他人の評価にさんざん振り回された部分もなくはないと思う。なにしろ王あるいは救世主とあがめられていたかと思えば、十字架刑に処せられるのだから。もちろんわたしはイエスの死後の復活を信じているが、復活を信じているからといって、それまでの紆余曲折がどうでもよいわけではない。復活は物語的に言えばハッピーエンド/ハッピースタートなわけだが、それは途中の紆余曲折を無視しては無意味なものだからである。
イエスが人々から王あるいは救世主とあがめられたのは、彼が前代未聞の福音を語ったこと、そして病気や障害に苦しむ人々を治癒した奇跡によるところが大きい。福音と奇跡の両者は相互補完的である。奇跡が福音の説得力を強化したし、福音が奇跡となって(部分的に)実現したということでもある。
イエスの言行について語る福音書は、四つまとめてもそれほど長くはない。福音書には記録されなかった言葉や行為もたくさんあっただろうし、そもそも言葉にし得ないイエスの人となり、その魅力もあったと思われる。カリスマ的魅力が(カリスマとはギリシャ語で賜物すなわち天からの恵みのことだ)イエスにはあっただろう。
ここでわたしは、根源的な問いをつきつけられる。イエスはその言葉や奇跡、カリスマ的魅力のゆえに人々を惹きつけた。ではイエスがそうした言葉や奇跡を行わなかったら、イエスはそれでも「神の」力を発揮できたのか。宗教画のようにいつでも後光がさしていたのならともかく、ただの30過ぎの男イエスに、人々はカリスマ的な魅力を感じただろうか。
実際、外的魅力とは相対的なものだ。だからこそイエスに熱狂したはずの人々の多くが、今度は「イエスを十字架につけろ」と叫んだ。
わたしのようなキリスト教徒は、ここで「群衆とは移り気で愚かなものだ」と結論しがちである。だが、そうだろうか。たとえば今でも、芸能人が政治的な発言をすれば、「そんなことは言って欲しくなかった」「幻滅した」という反応が起こる。カリスマ的魅力を持つタレント(タレントは聖書の時代の貨幣単位、タラントンに由来する。才能という見えないお金をたくさん持つ人!)が、いつもつねに、ファンの期待通りの心地良い言葉を語り続けてくれるとは限らない。「あんなことを言う人だとは思わなかった」というスキャンダル(スキャンダルもまた、ギリシャ語の「躓き」に由来する)が、イエスにもあったのではないか。
こういうことを突き詰めると、寂しさがこみあげる。けっきょくイエスに惹きつけられるのも、彼が「救ってくれるから」なのであって、彼自身を見ているのではないということだ。そしてそのことはそのまま、わたし自身にはねかえってくる。わたしを慕ってくれる多くの人もまた、ひょっとすると、わたしが「牧師だから」慕ってくれるのではないか。
実際、わたしは無職の時代、近所の誰とも会話をしなかった。できなかったのだ。誰もわたしを牧師だとは知らないなかで、そもそも誰かと深いかかわりを持つ契機は皆無だった。今、わたしが幾多もの人々のプライベートに首を突っ込むことができるのは、牧師だからである。相手もわたしが牧師だから、人には言えない秘密をさらけ出すのだ。ただの46歳のオッサンに、誰が自分のプライバシーを話すだろうか。わたしは「先生」と言われるたびに、無職だった頃の自分を、「無敵の人」になりかけていた自分を想い起こし慄然とする。
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