「やれやれ」と呼びかけに応じ

わたしは礼拝出席者数が10人程度の、小さな教会で牧師をしている。礼拝堂も一戸建ての民家のような感じ。ふだん、その二階にわたしは妻と住んでいる。

礼拝は毎週日曜日の朝10時半から始まる。人数が少ないので、毎週オルガニスト/ピアニストを確保することはできない。そこでヒムプレーヤーという自動演奏機を使う。讃美歌の番号をボタンで押すと、短い前奏と、歌詞の数のぶんだけ伴奏が繰り返されるのである。礼拝出席者はそれにあわせて歌う。今はどこの教会も規模が小さくなり、奏楽者が礼拝に常駐する教会も減った。わたしは前任地でもヒムプレーヤーで礼拝をしていた。

讃美歌を何度か歌ったり、司会を担当する信徒が聖書を朗読したりして、わたしが説教をする。説教といっても、当たり前だが叱りつけるのではない。聖書の話を信仰の立場から説明するのである。そのあとまた讃美歌を歌い、信徒が出席者から献金を集めたりする。それぞれの場面で、わたしや担当する信徒が祈る。月一度は、洗礼を受けた人だけが参加する儀式である聖餐式が行われる。イエスの最後の晩餐を祈念して、パンとぶどう酒(今はウェルチを使っているが)を分かちあう。わたしが祝祷(しめくくりの祈り)をして礼拝は終わる。

ところで、昔の人たちはどんな礼拝をしていたのか。聖書にはこんな一言がある。

詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。 エフェソの信徒への手紙 5:19 新共同訳

じつは聖書が今のかたちになるより、教会がイエスの復活を祝う礼拝を始めるほうが早かった。新約聖書が完全に今のかたちになったのは、ヨーロッパや北アフリカでは4世紀も末のことだったという。イエスは1世紀前半に活動し、教会はそこから始まっているのだから、今のような「閉じた」聖書を使っていなかったのである。詩編というのは今でこそキリスト教徒が「旧約聖書」と呼んでいる、それもやはり閉じた書物のなかの一部のように扱われている。だが当時は、ユダヤ教の数ある諸教典のなかの重要な一巻であった。ユダヤ教徒がそれを完全な正典として「閉じた」のは1世紀の末であった。そしてユダヤ教徒にせよキリスト教徒にせよ、彼らはそれを黙って読むのではなく、歌っていたのである。彼らはこんにちのように、書店で簡単に聖書を買って家で黙読できるような環境にはなかった。それに黙読するという習慣も持っていなかっただろう。巻物は代表者によって開かれ、会衆へと歌うように朗唱されたのである。参考音声:Paraklesis, Monks of Simonopetra Monastery, Mount Athos

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