「福」音でないからこその福音もある

'わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。 ' 詩編 22:7
'呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない。 'エレミヤ書 20:14
引用はいずれも新共同訳

聖書にこういう言葉が散りばめられていて、ほんとうによかったと思う。夢も希望もない、かけらほども前向きではない言葉が。思えば仏教も、今でこそ(宗教っぽさは抜き去った)「マインドフルネス」と、いかにもポジティヴなメッセージばかり語られているが、もともとはブッダが生老病死の、絶望しかないような現実を直視したところから始まっている。

古代から続く伝統宗教は、それぞれ異なる教義体系を持っている。それらを詳しく比較することなどわたし程度の知識ではとうてい不可能である。だが、たった一つだけ、わたしにも言えることがある。それは、それぞれの宗教はいずれも、人間の絶望的な現実という文脈から生まれているということである。

現代のような殲滅戦ではないかもしれないが、有史以来人々は戦争を続けてきた。飢饉や疫病も絶えなかった。今日のような憂鬱さとはかたちは違うかもしれないが、人々は「生きていてなんの意味がある?」という辛酸を、それこそ世界中それぞれの場所、それぞれの時代において味わってきた。宗教というのは、このように絶望を重ねる人間存在が、それでも日々を生きてゆくための知恵の体系でもあった。

もちろん、宗教にはブッダやモーセ、イエスやムハンマドなど、なんらかの開祖的存在がいる。彼らは神によって派遣されたり、自ら悟りを開いたりした。そして彼らのもとには必ず、悲惨な状況に放置された人々がいた。
この「救いようのない」人間の悲惨さ。それは愚かさの指摘という形をとることもある。罪深さへの糾弾になることもある。そして今日の信仰者たちは、それらの言葉を「これは自分のことを言っている」と捉えるのである。

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