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父とペペロンチーノ 幸福な裏切り

「嘘でしょ?!」 
母からのメールに思わず声が出た。

「今日のお昼は 菜の花のペペロンチーノです!」
そんなメッセージとともにスマホの画面に表示されたのは、葉っぱの緑とベーコンの赤が鮮やかなひと皿。フォークに伸びる父の手も写っている。

嘘でしょ・・・。もう一度繰り返した。
私の中で、「ペペロンチーノ」というカタカナと父の顔がどうしても結びつかないのだ。

父はいわゆる古いタイプの人間で、昔から食べ慣れているものでないと口にしなかった。グラタンやシチュー、ピザなどの洋食全般がダメなので、我が家の夕食は自然と和食中心だった。
クリスマスには骨付きチキンではなく大量の唐揚げが、煮物や刺身と一緒に食卓に並んだ(唐揚げは居酒屋メニューなので父的にもOK)。子どもたちがクリスマスケーキを食べている横で、父はいつも通りの晩酌をしていた。
さすがに誕生日だけは自分の食べたいものをリクエストできたので、私は毎年、グラタンとコーンスープをお願いしていた。滅多に食べられないスペシャルなメニューが、何日も前から楽しみだった。そして、ホワイトソースとチーズのなんともいえないコクに感動し、タマネギとベーコンがたっぷり入った濃厚なスープに歓喜した。ふだんは父を優先する母が、この日だけは自分のためにつくってくれたということが何よりもうれしかった。

そんな家だったので、ペペロンチーノを食べる父に心底驚き、そして少しだけイラついた。おいおい、あの偏った食生活はなんだったんだ? なんだか裏切られた気持ちだ。学生になり初めて行ったカプリチョーザで、「夢みたい!」と連呼し友人にドン引かれたあの時の私に謝ってほしい。

それにしても、父に何があったのか。移住という夢をかなえ田舎暮らしを始めたことと何か関係があるのか。後日母に聞いてみると、直売所で菜の花を買った際に、「にんにくと油で炒めるとおいしいよ。麺にも合うよ」と教えてもらったことがきっかけだったらしい。
母は言われた通り、菜の花とベーコンのにんにく炒めをつくった。これは間違いなくおいしいし、ビールにも合うから大丈夫。
その数日後、「本当に麺にも合うのか試してみる」という口実で、ほぼ同じ具材のパスタ、つまりペペロンチーノを一人前だけつくった。保険としてチャーハンもつくり、取り分けて食べられるようにした。父は案の定チャーハンから食べはじめ、途中でパスタも味見し、またチャーハンに戻った。そこで無理に勧めることはせず、母は静かに数年ぶりのペペロンチーノを堪能した。菜の花のほろ苦さとベーコンの塩分が、ガーリックオイルとよく合う。父も何口か食べたが特に感想は言わず、最後はやはりチャーハンで締めた。

そしてさらに数日後。直売所で再び菜の花を見つけた父が言った。
「この前の麺のやつ、また食べようか?」
黙って数口しか食べなかったくせに、実は気に入っていたのだ。なんだそれ。でも、作戦成功。母の勝利。こうして父は新しい世界の扉を開け、夫婦の昼食メニューの選択肢にペペロンチーノが加わった。

おそらく、最初から「ペペロンチーノだよ」と言って出していたら、そんな聞いたこともない料理を父は食べなかっただろう。地元の人においしい食べ方を教えてもらったから、パスタではなく「麺」と聞いたから、母が強く押しつけなかったから・・・。いろんなことがうまくいって、洋食だと意識せずにうっかり受け入れてしまえたのだろう。移住前なら考えられないことが起こったのだ。


私を驚かせた父の変化は、他にもあった。
たとえば、すごく社交的になったこと。移住前は平日働いていたこともあり、また、決して愛想がいいわけでもないので、近隣住人との交流はほとんどなかった。自治会の用事もすべて母がやっていたし、もともと必要以上に人と関わろうとしない人だった。そんな人が地方移住して地域に馴染めるのか、正直ちょっと心配だったのだが、移住した先ではなぜか「おだやかで優しそうな旦那さん」キャラを獲得していた。特に同性から好印象を持たれやすいらしく、家族全員が不思議がった。
当時六十九才の父は集落の中では若いほうで、面倒をみてやろうと思ってくださる方が多かったのだろう。いろいろな人が父に気さくに話しかけ、地域のことを教えてくれたり、呼びとめて野菜を分けてくれたり、車ですれ違いざまに手を振ってくれるようになった。夫婦日課のウォーキングをたまたま父一人でしていたら、いつもは黙礼だけで行き過ぎる顔なじみのおじさんに、「奥さんどうしたの?」と心配そうに聞かれたこともあったそうだ。

都会よりも明らかに密接な人間関係を、父は嫌がることなく受け入れ、世間話なんてものもできるようになっていった。最初は相手の好意にこたえようと少し無理してがんばったのかもしれないが、今ではずっと前からそうだったようにニコニコ挨拶しているのだからたいしたものだ。

そんな感じなので、地域の掃除やお祭りの準備などといった用事も、移住後はすべて父の担当になった。人生の先輩ばかりの中、若手として重宝されるのも悪い気分ではないらしい。市の中心部に勤めている同年代の人もいるので、買い物や医療の情報交換もできるという。

もともと父が望んだ移住なのだから、地域に適応しようと努力するのは当然だ。当然なのだが、やはりこの変わりようには驚いた。生活の変化はこんなにも人を変えるのか。ずっと住みたかった町に暮らせる、その喜びはそこまで大きいものなのか。いくら考えても、私の疑問と戸惑いは消えない。それを父に尋ねてみたところで、きっと明解な答えは返ってこない。今、父と母がしあわせに暮らしている、それがすべての答えなのだろう。


「スパゲッティなんかより、うどんのほうがうまいに決まってる」
なんて言っていた父は、もういない。だけど私は、そんなだった父もずっと覚えていたい。記憶の中のどんな父も私は好きだし、それはこれから先の父に対してもきっと変わらないだろう。そんなふうに思えるのは、母が私たちに施した「父親リスペクト教育」のせいだろうか。だとしたら、こちらも母の作戦勝ちだ。
(子どもたちに父親への絶対的敬意を植え付けた母の「教育」については、こちらに少し書いています)


これからも、父の変化に驚かされることがあるかもしれない。
私たち家族が知らない父の一面がまだあるのかと思うと、なんだか楽しみな気分になってくる。そう考えると、老後もなかなか悪くない。

両親の世界がどこまで広がっていくのか、私はまた幸福な裏切りに遭うのか、少し離れたところからそっと、見守っていよう。



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