ネコのレーゾンデートル
以前の記事で、幼少期構ってもらえなかった自分のことを、「散歩に連れて行ってもらえない犬のようだった」と表現した。
私の実家には猫がいる。
そういえば、あの猫こそ、かわいがられるためにこの家に来たのだ。
私たち家族は、かわいがるための猫が欲しくてもらってきたのだ。
私や実家の家族は、あの猫を十分にかわいがっただろうか。
家の中を大好きなおじいちゃん(私の父)を探してウロウロする。
おじいちゃんがいなければ他の家族にスリスリする。
猫は、まあ飼い猫になれなかったら野良で、誰にかわいがられなくても生存と生殖のことだけに集中して生きる。そういう動物だ。
だからといって飼い猫に対して、家の中で生存(生殖能力は我々が奪った)だけ満たしてやればいいだろう、というのも違うんだ、と今になってやっと思い至った。
猫が自分の存在理由なんて哲学的なことを考えるわけはないだろう。
だけど、「かわいがられるためにうちに来たんだもんな?」と言いながら撫でてやると、「やっとわかったか」という顔をして、撫でさせてくれた。
ニンゲンはバカなので、そんな簡単なことも分からないんだ。