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いまこそ、日記をつけよう

2020年4月1日、「日記屋 月日」をオープンします。

場所は下北沢の「BONUS TRACK」という新しくできる場所です。自分が経営している新刊書店「本屋B&B」も、出版社でもある「NUMABOOKS」の事務所も、ここに移転します。

「日記屋 月日」はその場所で、ぼくがもうひとつ新しくはじめる、日記のお店です。


「いまこそ」ということばに緊張しながら

ぼくは日記が好きです。自分の日記を書くことも、誰かの日記を読むことも、どちらも続けるほど奥深く、すばらしい経験だと感じてきました。

「日記屋 月日」は、その魅力を伝えるための拠点にしたいと考えています。

今日まで、たくさんの準備をしてきました。本来であれば、その準備が整ったことを喜びつつ、「明日はぜひみなさん、いらしてください」という主旨のことを書けばよかったはずでした。

その途中で、新型コロナウイルスがやってきました。ぼくたちの準備期間を、ひたすらむずかしい判断に迫られる日々に変えていきました。

この文章を公開している3月31日時点では、明日は朝8時から、予定通りオープンするつもりです。夜は短縮営業にしようと思っています。

いま「ぜひみなさん、いらしてください」とは、やはり言えません。せめて何か、言えることはないかと、ここ数日ずっと考えてきました。

ここで、これから「いまこそ」ということばをつかうことに、とても緊張しています。それは、自分が伝えたいことのために、まるでこの苦しい状況を利用するようなニュアンスにも、聞こえかねないとも思うからです。

けれど一方で、日記が好きで、日記についてずっと考えてきたぼくはいま、やはりみなさんに伝えたいと思います。

それは「いまこそ、日記をつけよう」ということです。

日記屋という変わった店をやろうというのですから、それを声高に言うことは、ぼくたちと無関係ではありえません。せっかくオープンするのだから、お店のことを知ってほしいという気持ちも、もちろんあります。

けれどそれよりも強く伝えたいと思うのは、いまどこかで苦しんでいる誰かにとって、ひょっとしたら日記をつけることが助けになるかもしれない、ということのほうです。

以下に続く文章は、日記をつけている人からすれば、当たり前のことばかりかもしれません。読んでしまえば、なんということもない小文です。それでもきっかけとしている話題が話題なので、やはり少し緊張しています。

方方さんは日記という形式を選んだ

中国・武漢在住の、方方さんという作家の日記が話題になりました。

武漢の人を中心に多くの人に読まれ、その内容が支持されました。一方で、さまざまな場所に転載されては削除され続けるという事態が、いまも繰り返されているといいます。

記事には「執筆中の小説をいったん中断して」日記を書きはじめた、とあります。

方方さんもそうしたように、状況がこのように日々移り変わるとき、ひろく伝える文章の形式として、日記はもっとも書きやすく、適した形式であるといえます。

日記であれば、書かれているのがあくまで書き手の「個人的な認識」であるということや、あとから読み返されたとしても、それが特定の日付をもつ「あの日の時点」の話であるということが、誰にでもはっきり読み取れるからです。

けれどそんなことは、文章を書いて公開することを生業にしているプロの作家にとっては、ぼくが言うまでもなく、自明のことでしょう。ぼくが「いまこそ日記を」と呼びかけたいのは、文章を公開するプロではない人たちに対してです。どちらかといえば、「日記なんて、夏休みの宿題でしかつけたことがない」という人のほうを向いて話しているつもりです。

なぜ、プロでもないのにわざわざ文章を、日記を書くのか。それは、日記をつけることそれ自体を通して、得られるものがあるからです。

日記をつけることで得られるもの

日記は、一日を振り返って書くものです。

しかし、書きなれていない人ほど、ことばにするのは簡単ではありません。とくに、感じたことや考えたことを書くのはむずかしい。ふだんきちんとした文章を読んでいる人ほど、それなりにまとまった文章を書こうとして、ああでもない、こうでもないと、書きあぐねてしまったりもします。

けれど日記は、誰にも見せなくてもかまいませんし、はじめに日付を置けば、あとはなんでも飲み込んでくれる、とても自由な形式です。最初からうまく書こうとすることはありません。

分量も、文体も、正確さも、毎日ぜんぜん違っていても、誰もとがめる人はいません。一行の日のあとに、何万字の日があってもいい。とても自由です。

まずは起きた時間。天気。食べたもの。行った場所、会った人。見たこと、聞いたこと、読んだこと。まずは思い出せる事実だけを羅列してみることならばきっと、多くの人ができるでしょう。それらを淡々とメモしておくだけでも、何も書かないのと比べればずっと、それをきっかけにして芋づるのように、あとで思い出せることがあるはずです。

ですが、できればそこで終えずに、それぞれの事実に伴って、そのとき感じたことや考えたことを、できる限りのことばにして添えておくとなお、いいと思います。

事実だけなら、日記をつけなくても、スケジュール帳やメールのやり取りに残っていたりしますが、そのとき感じたことや考えたことは、ことばにしておかないと、大半は記憶から消えていってしまうからです。しかも、感じたことや考えたことは、ことばにするまでは大抵、ただ頭の中でぼんやりしていて、ことばになっていないものです。

しかし一度ことばにすると、それがどんなに足りないものであっても、紙あるいはディスプレイの上にいったん、残る形をもちます。

一度書いたことは消さずに、なるべく残すのがおすすめです。形をもったそのことばに、足りないと感じるところがあれば、ことばを足すことで補おうとしてみます。

そうやってどんどん書いていくと、そのうちに書く力に引っ張られて、考えも進んでいきます。書くことは一直線で、論理的であるからです。

そうやって書いているうちに、自分自身のことなのに、自分でもわかっていなかったことがあると気づきます。自分は本当はこういうことを感じていたのかと、少しずつわかってきたりします。

その効果は、些細なようで、体験すると結構すごいものです。

たとえば「漠然とした不安」が、何かしらの「形をもった不安」に変わる。そのプロセスで、少なくともだいぶ冷静になることができます。

初めて訪れる街のことを想像してください。ぼんやりしたまま歩いていると、いつまでもどこにいるかわからず、実際よりも広く感じられたり、迷ったりするはずですが、意識して歩いて、目印をおぼえはじめると、頭の中に地図ができてきて、いつしか広さの感覚がつかめてきて、迷わなくなります。

日記を書くことはそれと似ています。初めて訪れた状況に対して、ぼんやりと大きく感じられていた不安も、書いているうちに輪郭が見えてきて、ここまでというところが、つかめてきます。ぼんやりしていたときよりは、小さく感じられたりもします。

頭の中が整頓されて、少しすっきりするからでしょうか。なので、掃除にも似ています。

2つの引用から

日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとり払われて、きれいになるように思う。一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちの中に入りたいために、日記をつけるのだと思う。

荒川洋治『日記をつける』(岩波書店、2002)   

この短い文の中に、日記のことが、とても端的に言い表されていると感じます。本書『日記をつける』は、全編このようなやさしいことばで、日記の魅力をコンパクトにまとめた名著ですので、もし興味をもってくださったら、ぜひ読んでみてください。

いま世界中で、外出を控えながら、不安とともに過ごしている人が、とてもたくさんいると思います。ぼくが「いまこそ」と感じるのには、もちろんそのことが念頭にあります。

中には「毎日家にいるのだから、日記に書くようなネタはないよ」と思う人もいるかもしれません。そう思ってしまうのは、先に述べた「夏休みの宿題」としての日記がもたらす、ひとつの悪い影響ではないかと思っています。たしかに宿題で書きやすいのは、何かわかりやすく特別な出来事があった日です。

けれど実際は、どれだけ同じように感じられる毎日でも、一日一日が違う一日です。食べたもの、交わした会話、やりとりしたメッセージ、見たニュース、流れてきたツイート。ひとつひとつは取るに足らないことでも、たしかにその日にしか経験していないことが、たくさん浮かぶはずです。

ましてやいま、状況は毎日、刻々と変化しています。いま、一週間前と似たような心持ちでいるひとは、ほとんどいないのではないでしょうか。今日と昨日、昨日と一昨日とで、受け取る情報も、それを読んで感じることも、まるで違ってきています。

日記は「あの日の時点」の「個人的な認識」を記すもの、と書きました。そして、その「時点」を記すのを続けることは、折れ線グラフを引くことに似ています。続けることで「変化」を記すことになります。

どんなに僅かな違いであっても、自分の経験と、それを通じて感じたことや考えたことを、そのときのことばにして付け加えておくこと。そうすることで、〈ほこり〉のように積み重なる、その日の不安を頭の中からとり払い、次の一日に向けて、少しの余白を空けることができます。そのような効用は、きっと多くの人にもたらされるはずだと、ぼくは思っています。

近しいことが書かれた文章を、もうひとつ引用します。こちらはやや古く、手に入りにくい本からです。

日記をつけること、それはしたがって平安と内面性の隠れ家を再び発掘すること、「内部」の失われた楽園を回復することである。日記は安心感を与えてくれる場所であり、自分以外の世界、空虚、いつおそってくるかもしれないめまい、そして未知と多様性と分散への墜落に対する避難所なのだ。

ベアトリス・ディディエ(著)西川長夫、後平隆(訳)『日記論』(松籟社、1987)

いま、〈楽園〉は望みすぎかもしれません。けれど少しの〈安心感を与えてくれる場所〉に、日記はなると思います。

いまこの世界を覆っているのは、目に見えないウィルスと、それにまつわるたくさんの情報です。ただでさえ、わからないことばかりです。

けれど、それらの情報に対して、自分がどう感じているかということは、ことばにするのは難しくても、まだわかり得ることのはずです。

日記をつけているうちに、「わかること」と「わからないこと」が分けられていきます。ことばにできることが「わかること」です。ことばにできなかったことについては「わからない」と書けば、「わからないこと」になります。それはたしかに〈発掘する〉ことに似た作業かもしれません。

そのような作業を通して、日記が少しずつ〈安心感を与えてくれる場所〉になっていくのではないか、と思っています。

記録として

先に書いたように、日記を続けることは、折れ線グラフを引くことに似て「変化」を記すことになります。そしていずれ、こうした時期のものはとくに、貴重な「変化」の記録になります。少なくとも自分にとって。そしてひょっとしたら、他の誰かにとって。

先日、イタリア在住の方の日記が、Twitterで話題になっていました。

「状況の変化を時系列に並べて書いてみた」とあるので、あとからまとめて書かれたものかもしれません。けれど、まだ記憶が新しいうちだからこその生々しさがあります。

書いておかなければ、きっと忘れてしまう。少し遅れて近しい状況がやってきている日本の人たちに、伝えておきたい。短い一文一文のなかに、そうした切実さを感じました。

ぼく自身も、プライベートな日記をつけていますが、大きな変化の時期には時間が取れなくなって、ほとんど何も書けなくなるときもあります。けれど、あとで読み返すといつもそのあたりで、なぜこういうときこそもっと、詳細に書いておかなかったのか、と後悔します。

プライベートな日記にも、未来の自分という読者がいます。多くの日記は、そのたったひとりの読者に向けて書くところからはじまります。そのうちいずれ、他の人にも読んでもらいたくなるかもしれません。死後ずっと時間が経った後に、その時代について知るための貴重な資料になるかもしれません。そう思うと、いまこそ書いておこう、という気持ちもわいてきます。

最後に

いま、ふいに時間ができてしまった人は、これを機に、日記をつけることをはじめてみませんか。

逆に、さまざまな対応に追われて忙しくなってしまった人も。寝る前でも、起きた時でも、あるいは数日まとめてでもいいので、ほんの少しでも時間をとって、やはり、日記をつけることを、はじめてみませんか。

このような状況下での誰かの日々を、少しでもましなものに、あわよくば豊かなものにすることを願っています。

そのうちに、もし日記に並ならぬ興味を持ったら、いつでも構いません、落ち着いたなと思えるころにでも、ぼくたちの「日記屋 月日」にどうぞいらしてください。

また、オープンに合わせて、全国どこからでも参加できる、「月日会(つきひかい)」の会員募集もはじめます。ひとりでは日記が続けられなさそうな人も、みなで一緒にはじめれば、続けられるかもしれません。

まずは、乗り切りましょう。笑顔でお会いできることを楽しみにしています。

いただいたサポートは「本屋B&B」や「日記屋月日」の運営にあてさせていただきます。