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『にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』について

2024年春に発行された、みの著『にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』を読んだところ、2020年発行の細川周平著『近代日本の音楽百年——黒船から終戦まで』(全4巻)と似た記述が多く見られました。

ここでは、書籍『にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』のあり方に問題がないか、その判断材料となる情報をまとめておきたいと思います。


2024年春に発行された、みの著『にほんのうた 音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』(2024、KADOKAWA)を読みました(以下、『邦楽通史』と省略)。非常に濃密な内容の書籍であり、個人的には、現在の「邦楽」の起点となる明治時代の記述に興味を惹かれました。

この分野を深く知りたいと感じ、本書前書きでも紹介されている、細川周平著『近代日本の音楽百年——黒船から終戦まで 第1巻 洋楽の衝撃』(2020年、岩波書店)を手に取りました(以下、『近代日本の音楽百年 第1巻』などと省略)。

読み始めたところ、冒頭1ページ目でいきなり衝撃を受けました。文章に既視感を覚えたのです。みの著『邦楽通史』を確認すると、似た記述が確認されました。以下に2書籍の文章を並べます。

●みの著『邦楽通史』p.78-79

 アメリカ合衆国大統領からの親書受け渡しのために、ペリーは二〇〇数十名の随員と共に、浦賀とは岬を隔てた久里浜海岸に上陸する。隊列の最初は海兵隊、水兵に加え、少年鼓笛隊と軍楽隊が続いた。鼓笛隊は一三人編成の一隊、軍楽隊は一三人編成のブラスバンド二隊。一行は、演奏に合わせて行進していく。
 ペリー側の記録では、上陸時には「ヘイル・コロンビア」(米国の初代国歌)や「ヤンキードゥードゥル」(米国独立戦争時の愛国歌)といった曲が演奏したとする。
 一方、日本側はどう見ていたか。当時の様子を、諜報活動で群衆に紛れていた薩摩藩士は、次のように書き残している。

『邦楽通史』p.78-79

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.1

 嘉永六(一八五三)年七月一四日(旧暦六月九日)、二〇〇名を超えるペリー提督の大行列が浦賀奉行の待つ応接所まで威風堂々と行進したなかには、一三人編成のブラスバンド二隊と一三人編成の少年鼓笛隊一隊が加わっていた。ペリー側の記録によれば、愛国歌「ヘイル・コロンビア」や「ヤンキー・ドゥードゥル」を演奏したという。一方、見守った側のある侍は驚きを報告している。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.1

私はこれを見て、みの著『邦楽通史』は、細川周平著『近代日本の音楽百年』の文章を"流用"しているのではないか、という疑念をもちました。

書かれた情報の一つ一つについて、参考文献を示すほど専門的な事項かどうかについては一般読者の私には判断がつきません。しかし、「ブラスバンドの編成」→「ペリー側の記録」→「日本側の記録」といった文章の構成には、著者によって個性が出るように思います。そこが一致していることから、"流用"しているのではないか、と感じました。

そして、同様の箇所が他にも多数見つかりました。具体的箇所は、後ほど列挙したいと思いますが、みの著『邦楽通史』の記述については、次の点が着目されます。

  • 『近代日本の音楽百年』と完全同一の文章は無く、細かく言い回しが異なっている。(同義語への言い換え、語順の入れ替えなど)

  • 『近代日本の音楽百年』と記述が似ている文章があっても出典の明示がない。(巻末の参考文献リストに『近代日本の音楽百年』の書名はあるが、本文との紐付けは無い)

  • 『近代日本の音楽百年』と類似した箇所につき、細かな書き換えを行ったことで原典の趣旨からずれた内容になっていると思われる箇所がある。(ただし、ここでは具体的箇所の指摘はしない)

完全同一の文章について出典明示がなければ、「引用」とはみなされず、剽窃・盗用と判断されるかと思います。しかし、本書では完全同一ではなく細かく言い回しが異なっています。そのため、私には明確な判断が下せずにいます。

また、『近代日本の音楽百年』の著者と出版社である、細川周平氏、岩波書店との関係についても気になります。文章の使用に関して、細川周平氏、岩波書店の了承を得ていれば問題ありませんが、通例、そのようなことはないと思われます。

書籍『邦楽通史』のあり方に問題がないか、その判断材料となる情報(類似点の比較)を以下にまとめておきたいと思います。ご参考になりましたら幸いです。

(以下、比較資料)


  • みの著『邦楽通史』→細川周平著『近代日本の音楽百年』の順で、文章を並べます(類似点の分かりやすい29箇所)。

  • みの著『邦楽通史』の確認範囲は、「第3章 レコード歌謡——大正時代」まで(p.201まで)です。

  • 引用文中で私が省略した箇所は【省略】と記すこととします。


●みの著『邦楽通史』p.44-45

 それまでは、神社などで奏でられる神楽、宮中で用いられてきた雅楽、仏教音楽である声明、狂言の謡、それに庶民たちの労働歌やわらべ唄、はやり唄などを包括する概念も言葉もなかった。

『邦楽通史』p.44-45

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.8

 日本にはかつては、神社の神楽と宮中の雅楽と農民の唄とわらべ唄と謡いと声明とはやり唄を包括する概念はなかった。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.8

●みの著『邦楽通史』p.44-45

鎌倉、室町時代を通して「音楽」は中国由来の「楽」である「雅楽」の同意語として少しずつ定着する。【省略】
音楽という言葉が一般化されるまで、大衆向けの歌を中心とした芸能は「音曲」、あるいは「うた」「曲」と呼ばれていた。

『邦楽通史』p.44-45

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.9

 その後鎌倉・室町時代を通して「音楽」は雅楽(中国の楽)の同意語として少しずつ定着し、一般の歌については「音曲」なり「うた」や「曲」の名で呼ばれた。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.9

●みの著『邦楽通史』p.89

 伊澤は国民国家形成には特定の歌の歌唱や合唱技術が不可欠と考え、すべての児童に同じ歌を歌わせようと考えた。西欧では、讃美歌や世俗の歌によってドレミの音感が人々に行き渡っている。それを教科書でおさらいし、既存の曲や類似の曲に教育的な衣替えを施せば、音楽教育の基本任務は遂行される。
 一方、日本ではそうした在来文化がない上に、音楽教育の確立は急を要し、さらに「近代化=西洋化」という思い込みも強かった。そこで、歌詞やメロディはおろか楽譜や教科書、発声法や伴奏楽器の演奏法の伝達、それを担う教師の養成もゼロから始める必要があるとされた。

『邦楽通史』p.89

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.183

とりわけ伊沢修二は国民国家建設の事業に特定の歌や歌唱・合唱技術が不可欠であると考え、既存の歌文化とつながりのない地点から、すべての小学児童に同じ歌を歌わせようという一大プロジェクトを実質的に指揮監督した。欧米ではドレミの音感は、讃美歌や世俗の歌によって人々に行き渡っている。それを教科書でおさらいし、既存の曲や類似の曲を教育的に衣装替えすれば、基本の任務は成し遂げられる。反対に日本では歌詞も旋律も伴奏楽器も発声法も楽譜も教科書も教師も、ゼロから立ち上げなくてはならなかった。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.183

●みの著『邦楽通史』p.90

 西洋で用いられる長音階は七つの音(ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ)を基本としている。この七つの音から、二つの音を抜いた五つの音で構成されるのが五音音階(ペンタトニック・スケール)で、スコットランドやアイルランドの民謡などに見られる。日本の伝統音楽や民謡でも五音音階が使われているが、音の運びが違う。

『邦楽通史』p.90

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.189-190

ド・レ・ミ・ソ・ラという五音から成るヨナ抜き音階は、構成音はスコットランド、アイルランドの五音音階(ペンタトニック)と共通するが、音の運びが違う。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.189-190

●みの著『邦楽通史』p.92

しまいには学校長から、東洋人に西洋の音階は無理だから音楽科は免除しようと提案されたほどだ。でも、それでは武士の名が廃ると「三日間、泣いて悲しんだ」と伊澤は自伝に記している。

『邦楽通史』p.92

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.186

自伝によれば、東洋人には西洋音楽などできまいから音楽科を免除しようと校長から勧めがあったにもかかわらず、それでは武士の名がすたると「三日許は泣いて悲〔し〕んだのであった」〔伊沢修二君還暦祝賀会 一九八八、二八頁〕。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.186

●みの著『邦楽通史』p.99

お役所的で高圧的な俗曲追放に対して、西洋音楽に明るくない教師たちはいかにして教育すればよいか思案する。一部の教師たちは、わらべ歌の替え歌によって啓蒙しようと試みた。そのほか、道徳教育のための歌、県内の地名を覚えさせる歌、農業を推奨する歌などが、明治一〇〜二〇年代に出版される。

『邦楽通史』p.99

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.202

高圧的な俗唄追放とは別に、わらべ唄の替唄によって啓蒙していこうとする一部の教師の実践があった。
【省略】
 このほか五倫五常の唄、県内の地名を覚えさせる唄、農業を勧める唄などが明治一〇—二〇年代に出版された。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.202

●みの著『邦楽通史』p.106

 引き続き雅楽の継承を担うことになった伶人たちだったが、新たなミッションも与えられる。明治七年、彼らに西洋音楽の伝習が命じられたのだ。宮中では、天皇も断髪、行事での洋装採用が法令で定められ、ご陪食の洋食化も進んでいた。行幸、外国使節謁見、宮中晩さん会などで雅楽と並んで洋楽が登用されるようになり、演奏機会が増えてきたことを踏まえてのことだった。

『邦楽通史』p.106

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.53

天皇が権威を民草に示し国民意識をつくり出す行幸、対外的な顔に関わる外国使節謁見、格式に関わる宮中行事——近代天皇制の確立に関わるこの三つの大事業に際して、雅楽とならんで洋楽が登用されたことは、天皇の政治的ありようの大きな変化を意味する。これは天皇の断髪や洋服の採用、御陪食の洋食化などと同時期の、そして同じ軌道の上の出来事である。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.53

●みの著『邦楽通史』p.107

 明治一六年に落成した鹿鳴館は外務卿、井上馨の主導で、外国貴賓の接待・宿泊施設として建てられた。井上は繰り返し、条約改正交渉のために鹿鳴館を建てたのだと言っている。設計を依頼されたイギリス人建築家ジョサイア・コンドルは当初、招かれる西洋人を喜ばせようと以前から関心のあった東洋趣味の建物を企画する。ところが当局は、純粋な西洋建築を求めた。西洋風の社交施設を設けることで日本の近代化を示し、欧米諸外国との条約改正の交渉を有利にしたいと考えたのだ。

『邦楽通史』p.107

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.51

 明治一六(一八八三)年一一月二八日落成の鹿鳴館のイギリス人建築家は、当初この外国人接待所に招かれる西洋人を喜ばせるため、得意の東洋趣味の建物を企画したが、当局は純粋に西洋的な建築を熱望した。そのすれ違いから、東西の諸様式をちぐはぐに継ぎ接ぎした建物が生まれ、後にいろいろと風刺されてきた。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.51

●みの著『邦楽通史』p.108

明治一九年に開催されたこのコンサートでは、軍楽隊、雅楽寮、音楽取調掛の有志たちがステージに立ち、クラシックだけでなく、和洋の楽曲を取り入れたプログラムが採用された。

『邦楽通史』p.108

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.61

 軍楽隊、雅楽寮、取調掛の有志が舞台に立ち、「乱れ」と「吉野の雪」は「令嬢数名」が演奏した。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.61

●みの著『邦楽通史』p.109

 こうしたプログラムは鹿鳴館でだけでなく、市中の演奏会でも行われた。今日では過渡期の産物とみなされることもあるが、和洋合同プログラムが日本の演奏会の主流になった可能性もあったのだ。

『邦楽通史』p.109

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.64

しかし芸術音楽への道は鹿鳴館が秘めていたいくつもの道のひとつにすぎない。消えたなかに、和洋折衷と和洋合奏のプログラムがあった。今日では過渡期の産物と見なされるのがせいぜいだが、そちらが主流となる道がありえなかったわけではない。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.64

●みの著『邦楽通史』p.109

ワルツなどで用いられる三拍子は明治以前の日本では馴染みがない。それだけに、西洋を象徴するリズムとして特別な意味を持っていたが、その習得には困難を極めた。

『邦楽通史』p.109

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.55

三拍子は明治以前には存在せず、その学習は困難を極めたようだ。それだけ違和感が強く、特に西洋らしさを体現する拍子として特別な意味を持った。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.55

●みの著『邦楽通史』p.137

 日清戦争の頃まで、町角で演歌師と稼ぎの場を共有していたのに法界屋がある。彼らは三~四人一組となって、明清楽の代表曲「九連環」を崩したメロディアスな節を月琴や胡弓、尺八などを演奏しながら歌っていた。

『邦楽通史』p.137

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.294

 日清戦争期まで大道歌いとして演歌師と稼ぎ場を共有していたのが、明清楽の「九連環」崩しの節を月琴で弾きながら歌う法界屋だった〔関鼎 一九八八、一二六—一三〇頁〕。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.294

●みの著『邦楽通史』p.138

 ある夜、小繁を聴きに行こうと寄席のある町の通りに差し掛かると、異様な風体の三人組の若い男たちがしきりに怒鳴っている。その周りを囲む黒山のような人だかりを割り込んでいくと、青年倶楽部の若者三人が声を揃えて歌い出した。

『邦楽通史』p.138

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.289-290

「異様な風俗の三人の男が、何やしきりに怒鳴っているのだ。人は黒山のようであった。私はその群集の中へ割り込んでいった。【省略】三人声を揃えてうたい出した」〔添田啞蟬坊 一九八二a、二四頁〕。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.289-290

●みの著『邦楽通史』p.146

ぴょんこ節とヨナ抜き長音階、七五調の歌詞という三要素が合わさって、「唱歌調」と呼ばれる曲調が確立された。

『邦楽通史』p.146

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.205

ピョンコ節とヨナ抜き長音階と七五調の教育的な歌詞との三要素が合わさって、俗に呼ぶ「唱歌調」が確立された〔嶋田 二〇〇九、一—一二頁〕。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.205

●みの著『邦楽通史』p.158

 軍楽隊は明治九年より、政府や軍による公的行事以外にも民間からの出張要請に応じて演奏されるようになる。吹奏楽隊の需要が高まると、退役隊員たちは自ら楽隊を結成して営業活動を行った。本来の職務ではない民間の招聘にはなるべく応じたくない軍楽隊にとっても好都合であった。

『邦楽通史』p.158

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.98

 文明開化の音響的な象徴、ブラスバンド、その独占組織であった軍楽隊は、明治九(一八七六)年より公的行事に次いで民間からの出張要請に応じ始めた。【省略】ブラスバンドの需要が高まるのと並行して、退役隊員の生活保障が問題になった。吹奏楽器演奏という軍楽隊以外では伝習されない特殊技能を活かす職種として、彼らが自ら楽隊を結成して営業活動に入っていったのは当然の選択だった。民間楽隊の結成は歓迎された。なぜなら、軍楽隊は本来の職務を離れ、民間の招聘に応じるのを嫌う傾向にあったからだ(一八八九年五月二八日付『東京朝日』)。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.98

●みの著『邦楽通史』p.158

 明治一九年、海軍出身の隊員によって結成された東京市中音楽会は、初の民間音楽隊とされている。

『邦楽通史』p.158

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.98

 明治一九(一八八六)年一一月(か翌年五月)、海軍出身の加川力(ホルン)、井上京次郎(クラリネット)らが組織した東京市中音楽会が、最初の民間音楽隊だったらしい。(2)

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.98

●みの著『邦楽通史』p.158-159

 市中音楽隊が次々と設立された時期には、少年音楽隊も誕生する。子どもによる洋楽器合奏団で、子どもに洋楽器を触れる機会を与えるだけでなく、親である大人に西洋音楽を聴かせる機会となった。

『邦楽通史』p.158-159

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.119

 市中音楽隊の営業開始と前後して、子どもの洋楽器合奏団が誕生した。少年音楽隊と総称され、教室の唱歌科を補う意味を持った。洋楽器に触れる機会を子どもに与えただけでなく、大人たちに西洋曲を聴かせる機会を与えた。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.119

●みの著『邦楽通史』p.159

当初より市民行事を主な演奏の場としていたが、日露戦争後は大型デパートが少年音楽隊結成に乗り出し、プロを養成するまでになる。

『邦楽通史』p.159

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.119

当初より市民の公的行事を主な演奏の場としていたが、日露戦争後には大型デパートが少年音楽隊結成に乗り出し、プロを送り出すほどまでに成長した。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.119

●みの著『邦楽通史』p.160

 冒頭の「日章旗」は、この日、陸軍軍楽隊を指揮した軍隊長・永井建子の自作曲である。日露戦争の英雄、大山巌元帥に捧げたもので、自作を始めに持ってくるところに、この演奏会に臨む永井の気合いが見て取れる。

『邦楽通史』p.160

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.72

 演奏は永井建子が日露戦争の英雄、大山巌元帥に捧げた「日章旗」で始まった。自作曲を劈頭に置く自負はもちろんだが、振り返れば、永井の大舞台が始まるという予告だった。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.72

●みの著『邦楽通史』p.161

後に童謡や歌謡曲を数多く残す作曲家の中山晋平は、長野にいた子ども時代、ジンタの演奏に感動して音楽の道に進むことを決心している。

『邦楽通史』p.161

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.146

長野の中山晋平(一八八七—一九五二)は、子ども心に赤十字支部設立のジンタに感動して「一生音楽の方面へ進もうと決心の臍を固めた」〔中山晋平 一九三五、三七六頁〕。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.146

●みの著『邦楽通史』p.161

曲のレパートリーは行進曲に軍歌、唱歌、俗謡、俗曲化した外国曲などで、複数の楽器によるユニゾンで旋律を奏でていた。

『邦楽通史』p.161

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.147

堀内の記憶によれば曲目は「君が代マーチ」「帝国マーチ」などの行進曲、「敵は幾万」「鉄道唱歌」などの軍歌・唱歌、「越後獅子」「かっぽれ」などの邦楽曲、「ジョージア・マーチ」など俗曲化した外国曲が好まれた。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.147

●みの著『邦楽通史』p.163

同時期に都市貧困層から生まれたジャズやサンバ、タンゴのように、知識人が民衆文化の代表としてジンタにお墨付きを与え、録音や記録を残す機会を作っていれば、J-POPの最新地点はまた別のものだったかもしれない。

『邦楽通史』p.163

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.157

もし同時期に都市貧困層から生まれた南米のサンバ、タンゴのように、知識人がジンタを国民=民衆文化の代表として担ぎ上げていれば、録音や記録を残し、別の道を歩んだかもしれない。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.157

●みの著『邦楽通史』p.163

チンドン屋は衣装や小道具で人目を惹き、太鼓や鉦に、練り歩き、口上を述べながらものを売り、チラシを配った。遡れば、口上は万歳芸や祝詞にまで辿り着き、江戸時代半ばには、歌舞伎の台詞や長唄に薬や酒の商品名を織り込むということも始まっている。賑やかしの太鼓は、平安中期の田楽にその起源を見ることができる。

『邦楽通史』p.163

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.161

チンドン屋は人目を引く衣装や小道具をもって練り歩きながら口上を述べ、物を売りチラシを配る。口上自体はさかのぼれば、万歳芸や祝詞にまでたどり着く。またその亜種として、歌舞伎の台本や長唄に薬や酒の商品名を折り込むということも一八世紀末から始まる。賑やかしの太鼓は少なくとも田楽にさかのぼる(高山寺の鳥獣戯画丁巻にあり)。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.161

●みの著『邦楽通史』p.163

チンドン屋のリズムは、鉦が細かいビートを刻み、二泊【補足:原文ママ】リズムの揺れには祭り太鼓の感覚が刻み込まれている。それに拍節的な行進曲が組み合わされ、その上で管楽器が旋律を奏でる。違和感なく西洋楽器と日本的な音楽感覚が融和しているのだ。

『邦楽通史』p.163

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第1巻』p.171

 鈴かん録音を聴くと、チンドン屋のリズムは下座の要素を継承しながら、違和感なく西洋楽器や拍節リズムが融和しているのに驚かされる。鉦が三味線や西洋楽器につかず離れずの細かいビートを刻み、俗にいうゆるいノリを作り出している。鉦と大太鼓の組み合わせが深いところで和洋混淆を実現している。二拍リズムの揺れには、日本の流行歌や祭り太鼓の感覚が刻みこまれているが、それに拍節的な行進曲が重ね合わされ、そのうえで管楽器が旋律を奏している。

『近代日本の音楽百年 第1巻』p.171

●みの著『邦楽通史』p.197

 そして、明治時代の終わりから大正時代にかけて、童謡と浅草オペラの隆興に前後して「お伽歌劇」と呼ばれる歌付きの小さな歌劇が書かれ、浅草では毎日上演されるようになる。

『邦楽通史』p.197

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第2巻』p.73

 明治末の歌劇熱の一端を担ったのがお伽歌劇だった。これは童謡と浅草オペラの隆盛と前後して書かれた子ども向けの歌つきの小さな演劇で、一流作曲家を巻き込み、百貨店の商戦に一役買い、浅草で毎日のように上演され、少女歌劇団を発足させ、レコード業界が人気キャラクターを生み出した。

『近代日本の音楽百年 第2巻』p.73

●みの著『邦楽通史』p.197

お伽歌劇の主要な作曲は、本居長世、北村季晴、それに佐々紅華。それぞれ三味線曲の要素を洋楽に調和させることを試み、同時代の唱歌や童謡とは異なる流れを生み出した。本居のみが童謡にも関わっていたが、北村は歌劇の経験者で、佐々は浅草オペラの創作を始めたばかりだった。お伽歌劇のヒット曲や代表作としては、本居の「うかれ達磨」、北村の『ドンブラコ』、佐々の『茶目子の一日』が挙げられる。

『邦楽通史』p.197

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第2巻』p.74

 お伽歌劇では本居長世(一八八五—一九四五)、北村季晴(一八七二—一九三一)、佐々紅華(一八八六—一九六一)という三人の作曲家が重要で、三人とも劇的効果を配慮し、三味線曲の要素を洋楽に調和させることに腐心して、同時代の唱歌・童謡とはだいぶ異なる路線を試みた。三人のうち長世だけが童謡にも関わり、北村は歌舞伎座で音楽劇『露営の夢』を上演して歌劇の方面では実績を積んだ経験者、紅華は浅草で喜劇調の創作を始めたばかりの新進だった。【省略】作品としては、お伽歌劇の最初のヒットとして長世の「うかれ達磨」、最大規模の作品として北村の『ドンブラコ』、大人気作として紅華の『茶目子の一日』を詳述し、それぞれが書かれた音楽劇の文脈や周辺の無名作品にも随時目を配る。

『近代日本の音楽百年 第2巻』p.74

●みの著『邦楽通史』p.197-198

 本居長世は「うかれ達磨」で、和洋の旋律の調和を目指した。西洋音階の曲調を基本にしながら、随所に三味線やわらべ唄の要素を加えた。

『邦楽通史』p.197-198

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第2巻』p.76

曲調は西洋音階を基本に、随所に三味線やわらべ唄の進行を加えて、長世の和洋調和の理想を聴くことができる。

『近代日本の音楽百年 第2巻』p.76

●みの著『邦楽通史』p.198

 桃太郎の物語を歌劇化した北村季晴の『ドンブラコ』には、全五場にわたってわらべ唄や民謡が散りばめられた。楽譜出版の際の広告には、「我邦ナショナルオペラの萌芽現わる!!」というコピーが添えられた。北村は同時期、東京音楽学校の邦楽調査掛で採譜に関わっており、始まったばかりのわらべ唄の五線譜化を意欲的に取り込んだ。

『邦楽通史』p.198

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第2巻』p.81

 「子守唄」「数え唄」「通りゃんせ」「ぺんたらこ」など二〇曲あまりのわらべ唄や民謡がちりばめられている(ピアノ譜にはその一覧つき)。わらべ唄、田舎唄の五線譜化が始まったばかりの時代には冒険的な試みで(本居長世のピアノ曲「数へ唄変奏曲」が一九〇九年の作)、「ナショナルオペラ」と広告が誇ったひとつの理由はここにある。同時期、北村は東京音楽学校の邦楽調査掛にて採譜に携わっていて、民俗遺産は民族・国民遺産に通じると考えていた。

『近代日本の音楽百年 第2巻』p.81

●みの著『邦楽通史』p.198

 佐々紅華の『茶目子の一日』は、語りのなかに歌が挿入されるのではなく、主人公の少女の見聞と台詞がすべて歌として展開するのが革新的だった。佐々の作ったメロディはほとんど西洋長音階だけで構成され、歌詞がうまく乗ったリズミカルなものだった。

『邦楽通史』p.198

○細川周平著『近代日本の音楽百年 第2巻』p.101

 『茶目子の一日』は、語りの物語のなかに歌が挿入される構造ではなく、少女自身の見聞と台詞がすべて歌として展開するのが革新的だった。母親と教師以外のすべての音、言葉を茶目子役が歌う。少女が劇の進行を担当している。紅華の旋律はほとんど西洋長音階だけで構成されているがリズミカルで、歌詞が非常にうまく乗っている。

『近代日本の音楽百年 第2巻』p.101

以上

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