一人一人に人生があるという事実に君は何を思うか【血の轍感想】

 『血の轍』についてツイートが流れてきた。熱烈な感想と共に、『血の轍は、母子相姦的な関係性に巻き込まれた息子の慣れ果てを見守る作品だ』的なあらすじの紹介が共にあった。
 私は反射的に“それは違うのではないか”と思った。でも、よく考えると全くその通りだった。
 では何故私は違うと思ったのかというと、私はそれまで『血の轍』を生死がテーマになっていると思っていたのだ。実際、この作品は主人公の静一がその母静子と共に猫の死体を触るところから始まっており、死が象徴的に描かれている。けれど、それは静子が静一を同一化させようと試みた結果生じた出来事であり、やはりメインテーマは母子の癒着にあると思う。

 静子は、家族に大切に扱われた経験が欠落しており、思春期の頃にはすでに人の命の重さを軽視する人格が出来上がっていた。
 静子は静一に

『へどが出らいね。この灯りひとつひとつ家族が入ってて、いちいち生活して生きてるなんて』

血の轍 8巻

と伝え、そして、幼い頃の静一に猫の死体を触らせてやり、中学生になった静一が

『みんな死んでるくせに』

血の轍 8巻

と思って同級生を殴るとそれを庇いながら静一の相思相愛の関係にある吹石という女の子のせいだと言い立てる。このように母子の癒着と同一化が描かれている。

 自分と同じように世界を見渡し、同じようなことを考えて生きて欲しいと感じるのは、未熟な恋愛の形式のように思う。
 人間は生まれてくる頃は母と臍の緒がつながっており、母と分離されていない自我を持って生まれてくる。そこから、徐々に親と自分は違う存在ということに納得し、自立した大人へと向かっていく。その過程で、一般的には恋をして愛しいと思った相手に対して癒着したい、同一化したいと考え、胎児期の母との関係性を繰り返そうとするという体験をするだろう。
 それが自我が未発達な思春期にありがちな恋愛の形式ではないだろうか。自我が不安定だから、自分が感じていることに不安を持ち人にも同じであって欲しいと望む。
 成熟した大人であれば、自分は自分の考えや感受性を持っていていいのだという思想が息づいていて、他者に同一化を求めなくなる。しかし、周囲の人間がその人のありのままの考えを否認すると(表向きは肯定していても、心の底では違うという場合は否認している場合に含まれる)、精神的な自立が妨げられてしまう。
 静子は夫と同一化を求めることは諦めてしまっており、その欲求は息子である静一へと向かった。静一は、静子が見ている、人がみんな死んでいる世界、死んでいて欲しい世界を生きることになった。
 そして、結果的に静一は従兄弟を崖から突き落として殺してしまう。

『この灯りひとつひとつ家族が入ってて、いちいち生活して生きてるなんて』

という静子のセリフに共感できる、共感できたであろう時期があるという人は少なくないと思う。
 両親や他者というような世界が自分を愛さない、自分を受け入れない世界を尊いと思わないのは当然だ。家族が自分に向き合わなくて違和感を抱いているのに、家族が愛し合う世界を眼差しを優しい物にできないのは当たり前のことだ。
 だけど、それと同時にそれは危険な考えでもある。

 読んだことがまだない本の感想ブログを引用してしまうことになるが、『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』アンソニー・トゥー の感想ブログであるこちらには、https://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/08/05/145134#被害者遺族感情について

『林郁夫が自首を決意したのも、自分が殺したのは「救済すべき人」「オウムに敵対する勢力」などという概念ではなく、「高橋さん」「菱沼さん」という家族や友人もいる、毎日笑ったり怒ったりしながら生きている一人の人間なのだ、と気づいたときだった。』

うさるの厨二病な読書ブログhttps://www.saiusaruzzz.com/entry/2018/08/05/145134#被害者遺族感情について

と書かれている。
 逆に言えば、『家族や友人もいる、毎日笑ったり怒ったりしながら生きている一人の人間』への敬意を欠くと、多くの被害者が出るテロリズムや虐殺を決行できるようになってしまう。また、そのように極端でなくとも、他者を蔑ろにして差別的な発想をするようになってしまう。人を人だと感じて大切にしようとすることは、社会的道徳の基礎となる感情だと思う。

 しかしそれが欠けていることを責め立てることも良いとは言えない。
 静子のように生きている人々を尊いと思えない人が、その気持ちを吐露できるような人や、吐露された時に立派なことは言えなくてもそっと頷いてやれる人になることが、愛と平和への大切な一歩になると感じた。
 『血の轍』のラスト付近では静一は中年になり、独身のまま工場で働いていた。静子は認知症の高齢者となり、家賃も払えなくなっていた。生きていた。
 殺人をしたこの親子の人生のことまで愛せるかどうか、これもまた人の生であると認めていけるかどうかが重大な瀬戸際だと思いながら、今日の私は繁華街を通っている車道を眺めていた。

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