不要不急とはどんなこと?
こんにちは。ぬくぬくママSUN'Sのかなちゃんこと中村香菜子です。
毎週月曜日はコラムを発信しています。
先週、香川県でも社会情勢は大変なことになってきました。多くの公共施設が封鎖され、多くの行事が中止になりました。それでも、昨年の緊急の時期よりは各自の考えで対策をしながらさまざまなことを行っている人もいますね。
ますます、「不要不急」という言葉の意味が何を指すのかがわからなくなってきたように思います。
私にとっては、子育てに関することや、自分の活動に関すること、そして自分と家族が健やかに生きていくことは「不要不急」ではない急を要することですが、他の人から見るとそれはそうとは限りません。
今報道では、「飲み会」「外食」などが悪いことのような印象を強く感じますが、飲食店の方や、何より人とお酒を飲み交わしたり、食事をすることを不要不急ではない大切なこととしている人もいると思います。
私は、今まで、自分のやっていることは、孤独な子育てをしているママたちを助けるためにとても必要なことなんだ!と、自分に言い聞かせていました。しかし、それはやっぱり個人的な幻想にすぎないと思い直しました。
誰かから見ると、子育てや地域の交流をすることは今しなければならない大切なことには思えないのは当然なのだなと思いました。
それは、私自身にとって、そこまで大事と思えないことを大事にしている人がたくさんいて、このような状況下でも工夫してそれを続けている人は多くいることに気付いたからです。
でも、まぎれもなく私の大切にしていることは、私にとって大切なのです。
それならば、私は誰のことも、どんな行動をしている人のことも責められないなと思いました。何も知らない外野から、命を引き換えにそれを強制したりするのはある意味暴力にもなりえると思います。
そもそも、命あってこその生活ですが、生活あってこその命です。
周りに流されるのではなく、今、自分が必要としていることをきちんと自分で選び取って工夫してやりながら生活する、それが私にはとても大切なことです。
タイムリーにこんな本を見つけたので読んでみました。
仏教という視点で、「不要不急」とはなにかを様々な角度から僧侶のみなさんが綴っていてたくさんのことを考えさせられました。
この中で、南直哉さんは、本来、人間は存在そのものが「不要不急」の存在なのだ、書いていました。
そしてこう書いていました。「要でも不要でもなく、急でも不急でもない行為があるとすればそれは遊びであろう。・・・要不要、急不急の手前に開かれているのは、無常の実存であり、そこにあえて『遊ぶ』には覚悟がいるに違いない。今や我々はその覚悟を決め『身体において存在する』領域を遊戯して、自らの生を問う新しい『作法』を見出すべきなのだ」と。
難解な文章ではありますが、この文章を何度も読み返しながら、私も生きる意味がないとおもったり、あると思ったり、自分自身にとっての「不要不急」とは何なのかを考え続けることが私自身の楽しいと感じる「遊び」であるような気もしています。
今まで仲良くできていた人が考えが違うために分断されたり、気まずくなったりもここ最近の悲しい現象だと思います。
どんな判断をしても、それはその人の見ている背景の中でのベストなのです。それを思えば、誰を責めることもできません。
多様性があるだけでなく、それを互いに認め合い、手と手をとりあっていけるようにするために、人の選択ややり方を批判するのでなく、その人の行動に思いを馳せる、そして関係性をよりよりものにしていくためにできることを対話しながら考えていきたいと思います。
私は、孤独な子育てを地域の中でたくさんの人たちと、共に楽しめるものとする活動を、工夫しながら今日も続けていきます。
やまない雨はない。きっと明日はいい天気。