自ら哲学することが正しい
自ら問いを立て、思弁を行い、それによって自分自身の哲学を主体的に始めることは、哲学の根本生命である。
もちろん、それは独善でもなければ、客観性を排するということでもない。そもそも、いかなる理論体系を構築するにせよ、一定の客観性が担保されることが、自分自身にもそれを理解できる条件だからである。
古今東西、ある意味では、他人の立場に全く依存しない、完全に独創的な主張は、むしろ普遍妥当性を欠いている。つまり、狂気に等しいものである。正しい意味での独創は、常に伝統の現代的なアレンジに過ぎない。
したがって、哲学は、一面では客観的な学問の一分野であり、確立された知識として、万人が学び取ることが可能である。
実際、プラトンのイデア論について、最大公約数的な説明を与え、これを理解することは難しくない。そして、イデア論について学ぶことは、自らの哲学的思考を明らかに向上させる。
しかし、だからといって哲学を、特定の知識体系の集積とみなし、哲学史の絶えざる習得と伝承に還元させることは、誤りである。
冒頭に述べたように、哲学は、自ら始めないかぎり、他の誰によっても代わりに始めることは不可能という意味で、常にゼロからの伝統なのである。
いわば、自らが修行して悟りを開くことを、代わりに行ってくれる人は、いかなる伝統に帰依したとしても、いまだかつて誰もいないようなものである。
例えば、ブッダの悟りは、あくまでもブッダ自身のものであって、他の誰のものでもないようなものである。
しかもその悟りは、まるでコップの水を他のコップに移すように、自動的に移せるものでは決してない。いかなる教えの下にあっても、またいかなる正しい師がいたとしても、悟りは己れの内なる泉から汲み取らなければならない。
哲学の学びと思考の関係は、およそ、そのようなものである。二千年以上の伝統と、ゼロベース思考の関係は、素朴な対立軸であるが、決して解消されることがない。その矛盾を矛盾として受け止める中で、哲学の精神は研ぎ澄まされるのである。
ただし、個人的な見解としては、私は「自ら哲学すること」を称賛したい。それに比べれば、「哲学史を学ぶこと」や「語学を学ぶこと」は、決して不必要ではないが、次点の問題とみなしている。
思考の空回りを恐れず、思考の回転速度を究極まで高めることで、さまざまな真理を理解し、己れの才能を開花させることができる。自ら道を歩く意欲を持たなければ、ソクラテス以来の伝統という栄養も、役に立つことはない。
私は、そのように考えるからこそ、自ら哲学することを必須とみなしているのである。決して、伝統の重圧の中に押し潰され、己れを空しくすることは、思考の代用品ではない。
もちろんそれは、何も無い場所から独創的な思考が生まれるという趣旨ではない。
しかし、ありとあらゆる事柄を学んでからでないと哲学ができないとすれば、人はいつまでも哲学することがないであろう。言うまでもなく、哲学史は膨大な伝統を持つからである。
したがって、人はあえて伝統を無視する勇気を持つべきである。