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死は可能的な不可能性である(ハイデガー)

ハイデガーは、「存在と時間」の中で、死を「可能的な不可能性」と呼んだ。この一見矛盾する形容は、何を意味しているのだろうか。

まず、死はいつでも、次の瞬間にも可能なことが挙げられる。蓮如が「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」と述べたように、死は瞬間ごとに開かれている現象である。単にそれは、明日、車にはねられて私が死んでしまうかもしれないといった確率論的なシナリオではない。もしかしたら、神の怒りが、次の瞬間、コンピュータのスイッチをオフにするかのように、私自身と私に関わる全存在を、不可逆的に消滅させるかもしれないであろう。ある意味で死とは、普遍的独我論に属する事態なのである。

しかし、他方では、死は体験不可能なものでもある。少なくとも、それは世界の内部で起こる客観的な事柄ではない。確かに、過去の例では数多の他人が死んでいるし、今もまたそうである。しかし、いかなる医学的な死を挙げたとしても、私自身の生と死を対照的に実験したことにはならないからである。エピクロスが、「生きている時は死んでいないし、死んでいる時は生きていないから、死は存在しない(無である)」と主張したのも、この意味においては適切である。

これら二つの事態を合わせて、ハイデガーは死を「可能的な不可能性」とまとめて形容した。そして、死に直面し、その中に踏みとどまり、世間的な自己を滅することで、本来的な自己へと先駆し、ひいては森羅万象に当てはまる普遍的な存在論への道を開くことを、主張したのである。

一見これは、きわめて「実存主義的」な見方であり、公共性を無視しているとも見える。しかし、死への先駆は、単に個人の自覚に留まるものではない。むしろ、その革命的な自覚は、波及的にフォルク(国民・民族)へと伝わり、ひいては地球民族の次元へと拡張することが可能である。ここから、森羅万象の生成変化の根源、そして常住不変な一つのものを捉える希望を持つことができる。

ひとえに、己れの死を知ることが、真理の凱歌なのである。

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