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正しさ 正義とは
こんばんは!
私は心理学というか真理というか哲学じみたものを幼い頃から考えながら生きてきました。
その中で最近思うことについて書いてみます。
テーマは「正しさ」。
あなたにとっての正義は何ですか?
私は競馬予想で、「消せる人気馬」を挙げます。こういった理由やああいった根拠から、今回は走ってこないという馬を選びます。私の中では渾身の思いで調べて出した結論なので当然自信があります。
私の友人達も競馬をやるのですが、私も親切心?から消せる人気馬を根拠を述べて紹介します。ですが友人の1人は全く意見を変えません。勿論競馬に絶対は無いので買うことは良いのですが、理由を聞いても「なんとなくこいつはきそう」と言います。
私は合理的なので「何言ってんだこいつ」と首をかしげますが、いくら言っても意見を変えずその馬の買い目の馬券をその友人は購入しました。
結果は着外。
その友人はレース後、「なんでこんなに当たんないんだよ」と嘆きます。
私は心の中で「今までは運良く当たってただけで直感だけとかそりゃ当たらないわ」と思いました。
こういうシーン、競馬の話に限らず、この記事をご覧になっているあなたの周りでもあったりしませんか?
このシーンで私が思う大きな疑問があります。
なぜこんなに論理的に(正しいことを)説明しているにもかかわらず意見を変えないんだ?
(私の伝え方にも問題があるのだと思います。そう思うようにしています。それは自分の成長のためであり、その考え方については今回は省略しますが…。)
その答えとしてよく思いがちなのが、友人は人の意見を聞けない人間なんだ、視野の狭い人間なんだ、説明しても理解できない頭の悪い人間なんだ、といったところです。
それは当然の思考です。
何故なら自分はさまざまな根拠や事実に基づいて論じている=正しいことを言っているのだから。
間違っているのは友人だと。
そういう面が表面化すると起きるのが、衝突や摩擦です。ビジネスシーンや人間関係でうまくいかなくなりますよね。私自身も正しいのは自分なのになぜ自分が否定されなければいけないのかと頭を抱えていました。
そういったなかで…
最近気付いたことがあります。いや気付くのが遅すぎるのかもしれませんが、人は「正しさ」がなければ生きていけないということです。
『人は「正しさ」がなければ、生きられない。
「さて、さっき述べたように、正義とは『正しい行為をする』ということである。しかし、何が正しいかなんて時と場合によるし、さらには正しさの基準も3種類に分類できるとはいえ、やはり人それぞれなのだから、『絶対的な正しさなどない』という印象を持つ人も多いかもしれない。たしかに、それはその通りだろう。
だが……、だからと言って、『正義』や『正しさ』について問いかけることが無駄だということにはならない。いや、むしろ、それでもなお、我々は『正義とは何か』『正しさとは何か』を問いかけるべきであるとさえ言える。
なぜなら、我々はみな、『正しさ』を求める存在であり、何らかの『正しさ』を基準にしなければ考えることも生きることもできない存在であるからだ。
たとえば、仮に『絶対的な正しさなんかない』と主張する人がいたとしよう。一見、彼は何の正しさも信じていないように思える。だが、実際には彼は『正しさなんかないということ』を『正しい』と信じているのだ。このように我々は何かを主張したり考えたりするとき、それがたとえ『正しさ』に疑いを持つような内容であったとしても、そこには必ず『それを正しいと思っている自分』が存在する。
つまり、正しさの存在自体をどんなに疑おうと、『その疑いを正しいと思っている自分の存在』だけは決して疑えないのだ。このことは、すわなち、我々が『正しい』という概念からは決して逃れられないことを意味する。
そうである以上、我々は『正しさ』に無自覚であってはならない。自分が何を正しいと思っている人間なのか……、何を正義だと思っている人間なのか……、自分の考え方の基盤、すなわち、『正しさの基準』を、我々はもっとよく知らなくてはならないのだ。
ゆえに、我々は問いかけなければならない。
正義とは何か? 正義とはいったい何なのだろうか?
キミたちが今日から受ける倫理の授業は、この問いについて人類がどのように考えてきたか、その2500年の歴史を学ぶ授業である。この問いを真剣に考えることは、キミたちのこれからの人生にきっと役に立つことだろう。なぜなら、先に述べたように、キミたちは『正しさ』という概念から逃れられない存在であり、たとえ無自覚であれ、必ず『正しいこと』を求めて生きてしまう存在であるからだ」』
出典「正義の教室」より
この文から考えた結果、
友人は友人なりの正義に基づいてその馬券を購入したのだ。私の正義とは別の正義から答えを出したのだ。と結論づけました。
「私なりの正義には根拠も事実もある。だから間違っているのは相手で、相手が考えを改めるべきだ!」
今までそう思っていましたが、相手には私の正義は軽んじられて考えられています。その相手の考えを変えさせるというのは大変骨が折れます。相手がまず自分を受け入れようともしない場合、私の意見など目も向けられず、大抵の場合衝突が起き、結果ストレスだけになります。
つまり、
相手を変えさせるのは難しい
ということです。
何が言いたいかというと
相手の意見や、相手からの自分の評価などを変えてもらうことよりも、エネルギーを自分に向け、自分にできることをやる方が幸せに生きられるということです。
勿論、相手の意見を変えてもらわないといけないこともあります。その場合はまず相手の正義を尊重し、信頼関係を築くことからでないと自分の意見に賛同はしてもらえないでしょう。
また、基本的に我慢をしてはいけません。我慢をすること、つまり自分の正義に反する行動をすることは人間にとってストレスになります。ストレスが溜まるといつか爆発してしまいますので…
理解をするんです。
自分の行動の理由や相手の行動の理由を。
そしてお互いの「正しいこと」を共有できるまで話し込みます。
そのためにも共通の理念が必要になります。
ストレスなく生きるためには自分が正しいと思う行動を常にとることができるはずです。
まとめ
取り留めのない稚拙な文章で申し訳ありませんでした。
簡単にまとめると
「自分の正義に基づいてストレスなく生きていくためには、他人の正義を理解し、他人を変えるのは難しいことを理解し、その上で自分の出来ることをしていくことが必要ではないか」
と言ったところです。
どんなシーンでもこのことを忘れずに幸せに生きていきたいものです。
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