松本良三『飛行毛氈』評:街の怪異
モダニズム歌集評第4回
底本:松本良三『飛行毛氈』(石川信雄発行、一九三五)
松本良三は夭折の歌人です。新芸術派の理念に同調し、前川佐美雄主宰の『短歌作品』に出詠していました。『飛行毛氈』は死後石川信雄の手により出版され、巻末には彼の年譜が付されています。
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夭折歌人の作品は評するのが難しいものだ。死の直後に刊行された歌集には、故人を称える評が付されている。しかし、没後九〇年を経ているのであれば、その作品の粗さについても言及しなければならない。作品を見る限り、彼は最も典型的な新芸術派の歌人だ。街に神経をくらくらとさせ、野に心を寄せる。彼らの一派に共通する特徴である。松本の歌には彼らの共通点へのプラスαが見えにくい。とはいえ、良い歌はある。
まずは野原の方から見ていこう。
新芸術派の歌には怪異にも似たものがしばしば登場するが、野原に出現するのは、樹木の声など、どちらかといえばやさしい怪異である。足跡から春の花々が咲いていく景は(足跡に花をコラージュしているわけであるが)、映画『もののけ姫』に登場するシシガミ様の歩く様子に似ている。
たんぽぽの花畑に星を埋める歌は、五百という数に注目したい。「五百」になにか隠された意味があるわけではないと思う。ただ数の多いことが必要なのだ。新芸術派の人々はしばしば大きな数や長い年月を歌の中に登場させる。「五百」と言われて、正確に五百の星々は想像できない。人間が同時に区別して認識できるもののの数はそう多くない。そうした認識の限界を探りにくる歌として、私はこれを読んでいる。星はよい肥料になりそうだ。
松本は蝶や花や小鳥を愛そうとしている。その原因を「胸の青くうつろな一ヶ所」に求めている。ただし、胸のうちに何かを求める歌はモダニズム期の作品にいくつか例があり、
胸のうちいちど空(から)にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし/前川佐美雄『植物祭』
胸壁の薔薇ばなの色を変へようとあをい電気をともしたりする/早崎夏衛『白彩』
上記二首などを挙げることができる。『白彩』は後続する歌集であるが、こうしたロマンティシズムを彼らは好んだようだ。
対して、街にいるとき彼らの歌は一変する。
一首目は街がアドバルーンを係留しているのではなく、アドバルーンが「くたびれはてた昼の街」をふわふわと支えていると主張している。彼らは街にこうした転倒をしのばせる。二首目のように、古代メソポタミアの地図を失くしても、もとよりそれは古代の地図であるから、現代のどこかの街で迷うことはないだろう。もっとも、遺失物の地図を探しているうちに迷子になったと読めば筋は通るが、地図を探して道に迷うのは滑稽だ。
三首目では気球を電波塔のように見立てている。見立てているが、気球は音を中継しない。あるとしたら聴覚異常か、異常に鋭い聴覚だ。ただし、会話などではなく「ざはめき」と音が曖昧になっている点は、理性の残り滓のようで、歌に不要な雑味を残していると思う。
そして街の中では怪異に遭遇する。野の怪異はやさしいものだが、街の怪異はほんものである。鬼が襲い来るのだ。しかし松本はどうやら楽しそうで、鏡の中というアジールに隠れつつ、それを「見とどけ」ようとしている。私はこの点に狂気の片鱗を感じてしまう。
二首目は自分自身を神と思い込んでしまう際の契機がおもしろい。考えていることが白い壁に溶け込んでしまうのである。松本の思想を受け止めて、壁は変色するか。「ただならぬおもひ」を捨て去るとひとは神様になって神社に祀られるのか。
憂鬱で怪異に巡りあう街に住んでいれば、心中穏やかならざるは必至のことと言えよう。傍らで炎が燃える。私たちにとって一番身近な火はガスコンロであるが、これは炎と呼ぶにはあまりに小さい。例えば、めらめらと燃え上がるキャンプファイヤーの炎がある。その炎のように大きな感情が湧き起こる。「ふれて」は折に触れて、のような用法と読んだ方がおもしろい。たまには、そうやって湧き起こる感情を外部化して折りたたみ、ポストに投函することもあるようだ。宛先はどこなのだろうか。
激情をもつ主体に対して、周りの人間は冷たいのかもしれない。ところで、当の薔薇があたたかいかというと、決してそのようには思えない。おそらく松本は薔薇に至上の価値を置いている。その薔薇になることができないのなら、せめて、人間は冷たくあってはならない。そういうことなのだろう。
松本の歌集は以下のリンクから読むことができる。ただし、利用には国会図書館への情報登録が必要であることに注意されたい。
松本良三『飛行毛氈』:国立国会図書館個人送信サービス
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