小玉朝子『黄薔薇』評:童心
モダニズム歌集評第1回
底本:小玉朝子『黄薔薇』(平野書房、一九三二)
『黄薔薇』を収蔵している図書館はほぼありません。国立国会図書館にも、日本近代文学館にもありません。じゃあどこで読んだのかというと、歌集を持っている人が歌集のスキャンデータを作ってくれて、それを読ませてもらいました。
石川信雄『シネマ』のように、この歌集も復刊されないかなと思います。
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小玉朝子の歌の印象は若い。若いというよりも幼い。構築された幼さである。しかし、読むものを少年少女に返す幼さである。小玉はの歌は青春のあどけない側面を描きだす。
幼児よりは年長だが、まだ幼さの残る中高生のような目線がある。「利己心」という言葉で背伸びしている。野原のおそろしさ、この主体はこどもたちに対して責任を持たない。草原でふいに遊ぶようなこともする。
履歴書は隠れた青春アイテムだ。若い人が自分の生きてきた期間を歴史と大仰に表現する点にも笑ってしまう。トーン・ポエムは壮大な楽曲になる傾向があることも思い出したい。例えばリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」は、誰もが知らず知らずのうちに一度は聴いている曲だ。ター、ラー、ラー……。タラー!と印象的な冒頭のあの曲である。履歴書がそんなものにならないかとこの主体は夢想しているのだ。
犬と向き合うときもあどけない。光る姿を想像する。置き手紙が犬に嗅がれるきっかけのアイテムとして置かれている。そんなはずはないのに。こっくりさんのようなおまじないを信じてしまう童心。関係のないことを結びつけてしまう童心。それらを思い出したい。
犬だけでなく、魚と向かい合う際にも童心は発揮される。水族館に行けば、体の透き通った魚の群れを見ることができる。ただしここで描かれているのは「ガラスの魚の」である。それをきっかけに紺青の歌が「透明体」となる。大海原が底まで見渡せるほどの水溜まりとなるのである。次の歌では、逆に主体が魚となる。銀の小刀は魚を捌くには使えるのだろうか。自分自身の弔いの用意のように見える。
弔いといえば「象形文字」の歌がある。読めない文字には不思議な呪術的力を感じてしまう。読める文字でも、祈りとしての機能がある。安らかな眠りや生まれ変わりの願いの器として、「大き樹」はそれらを受け入れる。
小玉の描く「ひと」らにはやはり青春の香りがある。ふるさとを出て志のため街に出てきたひとの垣間見せる童心を小玉は見逃さない。「情熱をこはした」というのは、体を壊したというように、自動詞として解釈したいと思っている。青春の挫折に対して、小玉は花束をおくる。「どの病室(へや)も花を愛せり人間のいのち稀薄となりゆくときに/葛原妙子『飛行』」が思い出される。痛みを抱えた人は花を愛することを知ってのことだろう。煙草も添えて。
昭和初期当時の喫煙率は目を見張るものがある。古い映画や古い時代設定の映画を見ていると、登場人物が驚くほど煙草を吸っている。喫煙者としてはつられて煙草が吸いたくなる。もちろん、火をつけるのはライターではなくマッチである。ここで小玉は煙草に火を移しているのか、それとも順当に燭台なのかもしれないが、火にまつわる不思議さを描き出している。そういえば、こな歌集から六〇年後には「呼吸する色の不思議を見ていたら「火よ」と貴方は教えてくれる/穂村弘『シンジケート』」という歌があった。
モダニズム期の特徴のひとつにコラージュ的な歌の作り方がある。「影法師」の歌はその典型である。影と私たちの動きは切り離せない。影は私たちの動きを真似る最も身近な隷属者である。その影がひそかな叛乱をおこして、よそをむいている。
モダニズム期の歌といえば、野原をよく描くことも特徴のひとつとして挙げられる。歌集タイトルは『黄薔薇』だが、ここには白薔薇へのフェティシズムがある。黄色いのは蝶の方であった。野原へのノスタルジーや百千年などの大きな数はモダニズム期に広く共有されているものだが、幼さの文脈に乗せられると無限の想像力をかき立て、不思議な効果を発揮する。
私はこの歌集が復刊されることを願ってやまない。
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