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真理を求める熱い心が生の自由につながっている

※上記の本を参照
※前回の続きです


デューイ(1859〜1952年・アメリカ出身)

・中世哲学(信仰によって真理にたどりつけるという考え)の批判から近代哲学(理性によって真理にたどりつけるという考え)、近代哲学から現代哲学に至る。

アウシュビッツでのユダヤ人虐殺に代表される、人間の理性にはおよそ頼れそうにない所業の数々から「人間の理性なんて当てにできない」との考えから、現代哲学へ移る。

デューイはプラグマティズム(実用主義)を説いた。
「本質はどうでも良いから、「それ」が役に立つことなのかどうか。有用かどうかで判断しよう」という考え。

道具主義(人間の思考は生きるための道具でしかない)を唱えた。

例えば「人を殺す」ことに関して、「何故人を殺してはいけないのか」ではなく、「殺さないと決めた場合、それがなんの役に立つのかを考えれば良い」と説いた。
この考え方で行けば、人に対してつく「嘘」も、役に立つ「嘘」ならば、それは真理だということになる。

デリダ(1930〜2004年・アルジェリア出身)

・真理は人それぞれでいいんじゃないの?と説いた人

昔であれば国同士の争いが起こったとしても、対人戦であり規模の小さい被害ですんだかもしれないが、デリダの時代に一つの真理を争いの中で求めようとすると、お互いの国が核などを所持してる以上、大規模な戦争で大勢が死んでしまうという理由もあって、このような真理がこの時代に流行った。

この頃、真理探究の不可能性を証明する理論が出てきた頃から、科学(物理学における不確定性原理)や数学(数学における不完全性の定理)においても真理探究不可を唱える声が続々と上がった。シンクロニシティ。
他にも、カオス理論、ラッセルのパラドックスなど、学問の完成を妨げる新理論が現代に突入してから次々と現れる。

逆に言えば『真理には到達できない』ということが真理であることがわかった。


現代哲学の主要なテーマ
『理性批判、西洋批判、真理批判』の三つ。あと他にもう一つ『他者』というキーワードも絡めて真理とは何かを考える。

レヴィナス(1906〜1995年・リトアニア出身)

・現代には「他者論」という哲学があり、その代表的な哲学者がこの人

ユダヤ人のレヴィナスはナチスドイツのユダヤ人虐殺で家族を殺された。
大切な人が居なくなっても素知らず、自分以外は何も変わらず、過ぎていく日常に、周囲の時間の流れに恐怖を覚えた。
自分では全くもって制御できない、知覚し得ないし、離れることもできない、何なのか分からないが、ただそこに存在し、自分の主張を否定してくるもの、自分の権利や生存に全く無関心なものを『他者(得体の知れない何か)』と説いた。

だが「他者」とは恐怖の側面や、不快を与えてくるだけでなく、自己完結のひとりぼっちから救い出してくれる、唯一の希望であり無限の可能性とも言える。

何故なら、例えば「他者」なる知覚し得ないものが存在しない世界で、世界の真理がわかったとする。要するに全ての事の本質がわかったとすると、「真理」について考える必要がなくなり、自由な想像や思いを巡らせることもなくなる為、思考の自由がなくなり、つまらない世界になってしまうからだ。

「ホントウ(真理)はどうなんだろう」「ホントウ(真理として)はどう生きるのが正しいんだろう」と持ち出してる時、人は「他者」と対峙していることになる。

このつきまとってくる「他者」からは逃げられない。逃げてしまえば勝手な自己満足、不毛な独り言になってしまうから。

以上のことから、現代においての真理とは「どんな正しい真理を持ち出しても、それを否定してくる他者が必ず存在する」ということになる。

サルトルは「他者」について「他者とは地獄である」。
レヴィナスは「他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一のものである」と述べている。


本日はここまで

◎今日の呟き
僕はちょうど高校1年生になったばかりの時、母親が亡くなったときに、レヴィナスと同じ立場にいました。
「何を願おうが、切望しようが、意図しないところで容赦無く不幸はふりかかかってくる」ということです。
少し思い出しました。ガンの母親を助けてくても助けられなくて、圧倒的な無力感とどうしようもない世界から「何をやっても無駄なんだよ」と叩きつけられた気分でした。
だから、「それに順応するしかない」「見えない力が容赦無く働く以上は何をやっても意味がないんだ」と、自分の心・感情を抑え込む日を送っていたように思います。
ですが、今回の「他者」に対する僕たちの立場というのは皆平等で、皆に容赦無く平等に降りかかるわけなので、「僕だけ」に降りかかるわけではなかったんです。
あの頃は「どうして僕だけ」という気持ちだったんですが、思い詰めていたんでしょうね。
「他者」という存在があることで挑むことができる。
よくわからない「余白」があるからこそのびのびで理想や意思を描ける。
「敵わない」とわかってても、無理かもしれなくても、果敢に挑んでいくアニメの主人公なんかに、僕はよく感動を覚えます。
「他者」の存在がなくなると、そういう何かに挑む人もいなくなり、そういう人を見て感動することもできなくなってしまうので、レヴィナスの説で完結でいいかなと思いました。





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