アートの見方について学ぶこと②
上記の本を参照
(※前回の続き)
5. アウトプットは鑑賞の質を高める
ルネサンス時代に、描く物を規制されてきた中で、突如カメラが出現し、写実的な絵の価値が落ちた。
画家達が「絵の価値は無くなってしまったのか」と迷走する中、奇抜な色使いで壁をぶち破ったのが画家アンリ・マティスだった。マティスは作品「妻の肖像画」にて肌色ではなくピンクや黄色、緑などの色を使って仕上げた。
写実的な画法の絵を「上手い!」と感じる人からすれば、どこが良いのかよく分からない絵だが、よく鑑賞してみると眉毛の形が左右非対称なのは、怒った時と穏やかな時を分けて書かれてるようにも見てとれる。
ただそれは「見た人がそう感じた」のであって万人にとって正解かどうかは定かではない。
ただ、一つずつ「なぜ、そう描かれているのか」を読み解いていこうとする過程がアート思考であって、そういった物の見方の柔軟性は他の分野にも生きてくる。
6. 答えがないのに、なぜ考えるのか
同一の題材にて作られた作品だとしても、作った人の価値基準に沿ったものが出来あがる。
それを自分のフィルターを通して見るんではなくて、常識に縛られた価値観を脱いで、本物の自分の価値観を見つけるために、「なぜそのように描いたのか」を考えよう。
目に映る世界の模倣だけが再現ではない。
7. 人間の視覚の便りなさ
写実的に遠近法を取り入れて描かれた作品にて。
物の大きさの見間違いや、クジラの尾ひれを耳だと思いこんでそれっぽく、象徴的に描いてしまう画家(「オランダの海岸に打ち上げられた鯨」の絵において。)など、人間は思い込みやいつもの見方の癖に左右されてしまう傾向もある。人の視覚は当てにならない。
8. 写実的な絵画は非現実的である
ピカソの作品「アビニヨンの娘たち」は他視点から見た娘たちを一つの枠に再構築した作品。他、遠近法で写真に収めたような絵を描く画家もいるが、それは本当に人間にとってのリアルなのだろうか。
試しに今あなたの目の前のどこでも良い。一点を見つめた時、その一点の周辺の一定範囲は認識できるが、その周囲ははっきりと見えない。要するに、写実画は一点一点物や細かいディティールを目で追って、物同士の距離なども計算し、細かい造形を描き込んでいることになる。
写真は精巧にその場の景色をくり抜いてくれるが、それはあくまで写真で撮ったリアルである。
人間にとってのリアルとはなんなのか。それを考えよう。
9. 鑑賞される事を想定していない絵
エジプトのピラミッドの壁画の家来達は、王様が死後の世界でも暮らしていけるように描かれている。
全てのパーツはハッキリと「人間のものだ!」と区別がつき、王に使役できるように描かれている。その為、壁画として現代的な遠近法を使った人物を描いてしまうと当時の人からすれば「腕の長さが違う!両方同じ長さでないと王の役に立たない!」「目は開いた状態で書かないと前が見えないじゃないか!」となる。
写実的に遠近法で描かれたえが「リアル」と捉えられるようになったのは、長い人類の歴史の中でもここ最近のこと。
今まで続いてきた人類の歴史の割合でみれば、今は単にそれが主流なだけであり、いつの日か「昔の人は遠近法が一番のリアルだと思っていたんだってよ〜おもしろいね笑」と言われる日が来るかもしれない。
要するに絵の描き方に正解は無いということでもある。
本日はここまで
◎今日の呟き
歴史の教科書に書かれてたザビエルだったり、エジプトの壁画だったり、当時はこんなアートの捉え方を教えてくれる先生はもちろんいなかったので、当時は完全に「写実的に描くことこそ正義!」だと思い込んでいました。
実は美術の成績は良く、絵は昔から得意で学年で1、2番目に写実的に描く能力は高かったと思います。
ただ、私の場合鉛筆などモノクロで描くのは得意だったんですが、色彩感覚が優れていなかった為、色をいれるとなると苦手意識が働いて絵を描くことそのものが好きになれませんでした。
今でもそうです。(ちなみにトップ画像は2年ほど前に描いた物です。)
趣味で写実画を描いていますが鉛筆画であって、色は入れていません。
というより写実的にどれだけリアルに描いても、それはそれで描く能力としてはすごいかもしれませが、やはり写真の劣化版のように思えてしまうんですよね…
こういった、私の「写実的作品」の捉え方も、本書に書かれてるような柔軟性を持ってすれば何か違いが見えてくるのか。
あるいは誰かに見てもらうことで、私が感じとれていない「作品の良さ」を引き出していただくべきかもしれません。