魅力的な矛盾
わたしは、矛盾がとても魅力的に思える。
例えば、「ほかほかアイスクリーム」。
アイスクリームは、バニラとかチョコレートとか色んな味、モナカとかカップとかいろんな形態があって、冬であってもお風呂を上がったら冷凍庫の引き出しを開けて一つ食べたくなる、冷たくて甘いあれのことだけれど。
それがほかほかなんて言われていたらどうだろう。
身体の火照りを落ち着けるには役立たずそうだし、そもそもそんな取ってつけた理由なんかどうでも良くてちょっと気持ち悪いような。でも、どんなものか一度食べてみたいような。やっぱり不味いのかな。意外といけるのかな。バズるかな。
例えば、「きらいだけど好き。」
これはもう魅力的な矛盾の代表格だと思う。ツンデレな男の子がきになる女の子にちょっかいを出している姿はたまらない。この場合ツンデレが女の子であっても全く構わない。
かく言うわたしはまさにこの後者であって、小学校の時に恋心を抱いていた男の子に突っかかってばかりいた。しかし彼はさらりとわたしの突っかかりを受け流し、「だってよ!」と彼の親友の男子をそのやりとりの巻き添えにして場をやり過ごした。
気づけばその親友の男の子にわたしは好かれていたのだった。なお、その事実はその男の子の母親からうちの母親へ、うちの母親からわたしへと伝えられた。
嗚呼、無情。
わたしは、自分が好かれていること云々よりも、その男の子が不憫に思えて仕方なかった。
ただ、歳を重ねると本当に「きらいだけど好き」なのか判断が難しくなるので注意が必要。
これには「きらい」なだけなのに勝手に「好き」の表現と受け取られるパターンと、「きらい」の表現のほうが強く「好き」と受け取れないパターンの大きく2種類ある。これらパターンに陥っちゃう原因はいろいろあると思うのだが、前者については「受け手の自意識が高いこと」、後者については「受け手の自意識が低いこと」が考えられる。
わたしたちはいつだって何かしらの場面に遭遇している。毎日蓄積されたその経験をもとに「ああは言っていたけれど、本当は違うことを考えているんじゃないかな?」などと推量や配慮ができるようになって、社会に適合し生活する大人、社会人になっていく。そして、年齢があがるにつれ、推し量った結果考えうる選択肢や相手がどう思っているかの予想数が増えていくのだと思う。
京都の大学に通い始めて間もない頃、よく友人と食堂で他愛もない話をして時間を潰していた。
「この髪型どうかなあ?」
どこの誰か知らない人がインスタグラムに投稿した写真を見せながら聞いたら、
「ええんちゃう?」
と返事がかえってきた。やっぱりいけてるよな、と思って
「じゃあこれにしよーっと。」
と写真を保存しようとしたら、先程まで眠そうにしていた彼女はハッとして目に光を取り戻し、わたしの携帯を瞬時に奪って写真を見て一言。
「ありえへん!似合わへん!」
初めてこの手のやりとりをしたときは絶句だったが、何度か繰り返すうちに関西人の「ええんちゃう」はバリエーション豊かで汲み取るのが難しい(わたしの悪友の場合は十中八九「どうでもいい」「聞いてないけどとりあえず返事した」だった)ことがわかった。
まあそうして誰もが予想の数を増やしていくが、受け手の自意識が高ければそれらの中で自分にとって都合のいいものを、受け手の自意識が低ければ都合の悪いものを選びがちになるんじゃなかろうか。
正直言って、その結果生まれる矛盾、
・本当は相手は自分に嫌悪感を抱いているのに、当人は好かれていると思っている
・本当は相手は自分を好意的に思っているのに、当人は嫌われていると思っている
は魅力的ではない。どちらの場合も、すれ違いが哀しい。
推し量れることや配慮できる大人は素敵だけれど、感情を適切な言葉で相手に届ける勇気を持てる大人も素敵だなって思う。
ひととひとの間に起こる矛盾は、胸をきゅんっとさせる甘酸っぱいものだけあればいいなあ、なんて。