書き人の問答と、愉快は。
エッセイ(のようなもの)を書く時でも、日記を書くときでも、創作を書くときでも、いつも着地点、すなわちどんな表現で収めるか、迷う。
多くの人が知っているように正解はなく、考えれば考えるほどいい場所に到達するわけではなく、それは自分との問答である。
今日食べたプリンについて書きたいとき、「おいしかった。」というシンプルな表現で(むしろ、だからこそ)満足できるときもあれば、
そのプリンが入っていた器の話やなぜプリンを食べることになったのかのに触れたい時、
「おいしい」という言葉を使わずにその味の素晴らしさを表してみたい時もある。
その日の気持ちや状況によって、さらにそもそもの好みという軸も重なって、選ばれる構成や言葉はくるくると変わる。
だから、過去に書いた文章を読み返していると、確かにその時は納得した出来であったのに、修正を加えたくなる。
例えば「~である。」で、締められていた文章を「~なのです。」に変えるだけのこと。
でも「だけのこと」、はわたしにとっては「だけ」ではない。
違う、やっぱりこう!こっちのほうがわたしの感覚としっくりくるの!詳細な原因と結果がいつでもあるわけじゃない。
毎日、パソコンと向かい合っては、わたしの頭の中はこんなやりとりが行ったり来たりだ。
そして、ひと様の文章を読んでいると
「なんでここ、こういう表現なんだろう。」
と気になってしまうことも多い。
「なんでこの言葉なんだろう」
「結末は敢えて書かないことにしたんだ」
「心情描写から、一気に視点が風景に飛ぶのか」
ずるずるとその文章に引き込まれつつ、きょろきょろと周りをくまなく観察をする。一つを読みながら、二つのわたしがパラレルに進んでいく。
読了して、ときに想像する。
「きっとこの人の本棚には詩集もいくつかあるんだろうな。」
「この人は、シャツのボタンをきっちり締めるタイプかな。」
そんなことを思っている自分にハッとして、ふふっとくすぐったくなって、かと思えばメラメラっとくるものがあって、また自分と問答するべくパソコンを開く。
じつに地味で、この上なく愉快だと、わたしは思う。