言葉のラリー
今日は、一緒にフェアを出展する仲間と一日中ミーティングをしました。
もちろん雑談もしました。
フィールドワークで出会った方たちと話しているときもそうだけど、みんなと話していると、得られる疑問や気づきが多いと感じました。
そしてそれは、言葉のラリーをしてくれる優しさがあるからだと気づきました。
私が考えていることをどれだけ言葉にするのが遅くても、まとまりのない拙い言葉でも、必ず返してくれるんですよね。
運動はもっぱら苦手で、球技は特に苦手です。
高校のころ、授業でテニスをやっていたことがあるのですが、自分でも笑っちゃうくらいへなちょこでした。
うまくできないもどかしさを一周通り越して、面白くなっちゃってました。
例えば、テニスボールがラケットの中心に当たらなくてボールが予想もしていないあさっての方向へ飛んでいったり、力がうまく入らなくて弱い球を返したり。
私の話、特に、まだ完全にまとまりきっていない思考を口にするとき、このボールと同じ現象が起きていると感じます。
予想もしない方向へ話が飛んでしまったり、そもそも着地点が見つからなかったり。当意即妙の返しができなくてへにょへにょの言葉を返してしまったり。
でも、上手な人は、私の打ったボールをうま~~く打ち返して、ラリーを続けてくれるだけの技術が、優しさがあります。
私がいくら見当違いなことを言っても、それに反応して言葉をまた返してくれる。
いくら言葉を紡ぎ出すのが遅くても、じっと待ってくれる。
自分でも、「下手だな、遅いな」と思ってもどかしいし、焦ります。
でも、同時にラリーをしてくれる人の優しさも感じていて、心に温かい感情が広がります。
それで、その優しさに包まれながら思考を巡らせているとき、気づいたのです。
どれだけへなちょこな言葉を投げても、ラリーをしてくれる相手がいるから、打ち返してくれる優しさがあるから、気づきを得られるのだ、と。
フィールドワークで出会った方たちは特に、そのラリーを続けようとする優しさにあふれているとずっと思っていて、感謝しっぱなしでした。
言葉を探している時間も、急かさずに待ってくれる。
どれだけノーコンのボールを投げても、丁寧に打ち返してもらえる。
それがどれだけありがたいことか、想像してもしきれないほどの有難さです。
いつも私とお話を、ラリーをしてくださる皆様に、心からの感謝を。