順番についてのこだわり
幼いころ、母に
順番は守るもの
だと教えられてきた。
直後、私がお祭りの屋台に並んでいるのに
平気で割り込みをしてくる人を見て、
「話が違うぞ」と驚く。
物理的な順番に関わらず、最近「順番」について考えている。
私が初社会人として入社したのは、
昭和の風がそこら中に漂う
こってこての日系企業だ。
会社の先輩たちが、質問をしてくる。
「最近の若い子の間で何が流行ってるの?」
「女子なのに男っぽい性格してるね」(←この発言に至っては違う点でも引っかかる)
ん?名前忘れられたかな?と一瞬考えるが、いやさっき名前呼ばれたな、と思い出す。
私の名前はCometであって、決して
『最近の若い子』でも
『女子』でもない。
私が大学で学んできたのは何だったんだろう、と頭がクラクラしてくる。
思わずうつむくと、ピントの合わない視界で足元がぐらぐらしている。
「Cometは女子である」
と、
「女子の1人であるComet」
ただ順番を入れ替えただけだが、意味がだいぶ異なってくる。
生物学的な性別とか、年齢とか、外見とか。
確かにこれらは事実であり、かつ「私」を私たらしめる属性である。
ただ、それらの要素から生み出されるステレオタイプ的な見方で私のことを判断されると、
「あれ、フィルターにかけられてるぞ」
「私を私として見てないのでは?」
という感覚になる。
私は非常に視力が低いため常時眼鏡をかけているが、
主語が大きい人たちも「目には見えない眼鏡」をかけているんじゃないかと、文字通り目を疑ってしまう。
女子だから、声が高いのか?
若いから、最近の流行を追うのか?
逆じゃないだろうか。
「○○さんは、声が高い」
「○○さんは、流行に敏感だ」
私が女子というベールを被っているのは事実。
でも、ベール越しに私を見ても、顔も輪郭もぼやけてるんじゃない?
人は何重ものベールに覆われている。
会社の役職とかも、ベールの中の1枚だろう。
それが属性やステータスであることは確かで、
数字や単語として表すことができる。
でも、そのベール越しに人を知ろうとしても、結局ぼやけた輪郭からの大体の推測でしかその人を知ることができないと思うのは、私だけだろうか。
肩書だとか、ステータスだとか、そういう属性から人を判断したくない。
固定観念に縛られたくない。
対話をして初めて、その人を知りたい。
だから私は、視力が弱いながらも目を凝らし、だれに対しても同じように丁寧に接し、真っ直ぐに人を見つめたいのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?